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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(10)…縁故疎開

阿部 典文

 東京大空襲を経験して縁故疎開の実施が急がれたが、関西方面も空襲の被害を受けて交通事情が悪化していたので、一家五人の切符入手は困難を極め、ようやく三月末東京を発つことが出来た。

 当時疎開先大分への直行列車はなく、途中空襲を受けての一時停車や乗換え等を含め二日間の苦痛(特にトイレ)に満ちた旅であった。加えて驚いたことに、深夜到着した父の故郷・大分県北海部郡神崎村の駅で、駅員より父の実家が数日前の艦載機による列車銃撃で炎上したことを知らされた。

 翌日実家を訪れると、半焼した母屋と、周辺の夏みかんの樹の母屋に面した側が焼け爛れていた光景を眼にし、安全を求めての疎開の先行きに両親は不安を感じたようであった。

 しかし私は別の楽しみを期待していた。
 因みに住民の相当数が近県出身である東京では、父母の故郷で夏休みを過ごし真っ黒に日焼けした姿で帰校する同級生が多く、彼等の語る水遊びや魚捕りの体験は、田園生活を知らない私にとっては桃源郷での夢の世界の物語であった。

 その夢にまで描いていた田園の風景が目の前に展開していた。
 東西に走る標高4百米程度の山稜と、海に落ち込む支脈に三方を取り囲まれ、北方には別府湾を隔て国崎半島が霞んで見えていた。
 幸いにも焼け残された納屋や牛小屋の前には小川が流れ、少し離れたところの溜池の水面が朝日に輝いていた。
 そして実家付近で鉄道は大きく南に向きを変え、佐賀関半島の背稜の山波を貫くトンネルへと消え去っていた。

 このように陶淵明が描いた桃源郷と同じような舞台装置を備えた奥行き六㎞ほどの小さな半農半漁の村が、一年生であった弟を従えての私の新たな活動の舞台となった。

 特に海や川での魚捕りは、大人を驚かすほどの豊かな捕獲物に恵まれ、捕獲された小魚や魚介類は、漁港で水揚げされた海の幸とともに母の手で干物にされ、故郷の香りと家族の無事を知らせる便りとして東京に送られ、父を喜ばせていた事を後日知らされた。

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