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エッセイ・コラム

親父の客人

西田 昭良

 昔の封建時代には家族内にも身分制度があって、「倅、次、三男、厄介者」といわれていたそうだ。家督の相続権があるのはせいぜい三男まで。四男以降の厄介者は冷遇されるか養子にでも出されてしまう。
 私の親父もその例にもれず幼くして養子に出され、そこの両親が他界すると、十七、八歳で東京に出てきた。理由とその後の経緯は定かではないが、実直に生活して巡査になり、所帯も持つことができた。
 その親父、まだ新婚の色が褪せない頃から、時おり客を連れて勤めから帰ってくる。酒肴や一飯は常で、時には一宿をも振舞ったそうな。嫁さん、つまり私のお袋は、それを極度に嫌がった。それもその筈、多くの場合、その客人は偶然に知り合ったばかりの赤の他人だったという。お袋にとっては馴染みが無いどころか物騒極まりない。巡査稼業の親父にはその危機感は薄かったのだろう。
 大正ロマン華やかりしき頃、世の人情は寛闊(ひろやか)で長閑であったという。しかしそれ以上に危機感を麻痺させるものが親父にはあった。それは同県人ということ。
 生粋の鹿児島県人である親父にとっては〝薩摩〟という二文字は黄金よりも輝いていた。その一言で、どんな人とでも百年の知己になる。
 今と違って情報伝播(でんぱ)が未発達の時代。身内からの手紙と南風(はえ)だけが、故郷の香りを運んでくる。募る望郷の念が高じ、親父をして時おり見知らぬ客人を連れてくるという暴挙を起こさせたのであろう。
 東京育ちのお袋は、夫の気持ちを忖度して妥協案を出した。来客は歓迎。但し、泊めるはご法度、使うは標準語(東京弁)、と厳しかった。
 親父を駆り立てていた望郷のエネルギー。それと同じ熱き心を、毎年、盆暮れの帰省ラッシュの中に見る時、故郷の無い私の心には、いつも驚異と羨望が間欠泉のように噴き出すのである。

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