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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(11)…桃源郷

阿部 典文

 私の縁故疎開先での住居は、父の実家から北北西に約2㎞離れた漁業集落「馬場」で、ここに一家四名が住み、父は東京に引き返して行った。

 村の国民学校・本校は役場のある集落「神崎」にあり、「馬場」からの距離は約2㎞。別府湾沿いの往還や、小川に沿った脇道が主な通学路となった。この本校―実家―我が家で結ばれた多様な自然に恵まれた領域が、私たちの活動の舞台となった。

 春、疎開先での最初の体験は山菜採りから始まった。
 半島の背骨をなす標高400m前後の山々より流れ出す細流や、草刈場が採集地であった。その適地についての情報は、子供と思って秘密の場所を気軽に教えてくれる古老であり、時には父の少年時代の腕白ぶり等も話題に上った。
 やがて季節は移り田植えが始まる。戦時下で男手の少なくなった農村では、国民学校高学年生は貴重な労働力。学校は臨時休校となり、田植えの応援はきつい労働であったが、そこで得た田圃や用水路の地形的特徴、即ち何処の水路の石垣が鯰や鰻の住処であり、田圃から落ちてくる小鮒や泥鰌が集まる水溜りは何処か等の知識が、子供たちにとって魚を効率良く捕える情報源となった。

 夏、冬の北風を受けて閉鎖されていた小川の河口が梅雨時の増水で開削され、海と繋がった「新切れ」が私達の格好の水遊び場所であった。
 また漁港に隣接する砂浜で覚えたマテ貝の習性を利用する潮吹き漁獲法や、突堤での黒鯛の当歳子「チヌ」の海釣りは、今でも気持ちが踊る体験であった。

 秋は村の鎮守のお祭り。そして偶々行われた用水池の水抜きによる清掃・補修作業では、大人に交り泥まみれになって捕獲した大型の鯉や鯰などは、子供の能力を超える収穫物であり、夢のような贈り物であった。

 終戦を挟んだ困難な時期の疎開生活であり、親の苦労は想像を絶するものがあったと思うが、都会っ子であった私にとっては、まさに「桃源郷」での光り輝く得がたい経験であった。

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