作品の閲覧

エッセイ・コラム

水温み、山笑う

浜田 道雄

 熱海に移って一年半あまり、日がな一日家にいて海と山とを眺めていると、思いがけないところで移りゆく季節の流れに気づき、変化を演出する自然の妙技に驚かされることがある。

 一月末のある朝、海の色がわずかだがこれまでと違っていることに気づいた。前日までは青黒く冷ややかに静まり返っていた海が、その朝はいくらか青みを増して明るく、どことなく暖かく見えた。遠くの水平線に眼を凝らすと、冬のあいだはくっきりと見分けられた三浦半島の山々や房総の鋸山がいまはわずかに滲んで、山並みの判別もむつかしい。
 海が春の便りを運んで来ている。春はもう、すぐ近くにいるんだ。
「そうか、水温むときなんだな。寒かった今年の冬もようやく終わりか」
 そう思うと、わたしはベランダに出て、久しぶりに大きく伸びをした。

 それからいくばくもしないうちに、糸川沿いの熱海桜の並木で花がほころび、それを追うように梅園の梅も咲きはじめた。こうして、熱海の春が動き出した。
 熱海ではサクラの季節はかなり長い。東京と違ってソメイヨシノがあまりなく、街なかや周囲の山々には寒緋桜、河津桜、ヒマラヤ桜、ヤマザクラなど、いろいろと種類のちがうサクラが多い。サクラはそれぞれ開花の時期がわずかずつだがちがうから、ここではサクラは一度に咲き一度に散っていくのではなく、互いに舞台に上がるときを図っているかのように、微妙な間をおいて咲きはじめる。
 家の背後に連なる伊豆の山並みを眺めていると、そんなサクラの変化がよくわかる。日を追ってサクラ前線が麓から山の稜線に向かって登って行くさまが、スローモーションビデオを見ているように、見て取れるのだ。
 四月半ばを過ぎたいま、庭や近所の家では遅咲きの八重桜やシダレ桜が散りはじめたが、山ではヤマザクラがまだ満開だ。サクラの季節はこのヤマザクラが散りおわるまで続く。

 だが、春はそれで終わりではない。今度は山の木々が芽吹き、新芽の淡い緑が微妙なグラデーションをつくりながら山々に広がっていく。これから木々の緑はときを追って色を濃くし、枝を広げた木々はますます膨らみを増していく。
 いよいよ山笑うときがはじまるのだ。

(2014.04.24)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧