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エッセイ・コラム

憲法を学んだ「岩倉使節団」・・・木戸と大久保

大平 忠

 明治4年、「岩倉具視使節団」が米欧に派遣されて、今後の日本を築くための指針を得るべく多くのことを学んで帰ってきた。なかでも、憲法の調査研究には時間と労力をかけ、またその成果も大きかった。
 アメリカで不平等条約の改訂作業に失敗してから、国内の法治国家としての制度を構築しない限り列強には相手にされないと悟り、国の制度についての調査研究に注力するようになった。特に木戸孝允は熱心で、ヨーロッパに渡ってからも各国の憲法について、有識者を精力的に訪れて教えを乞うている。この頃の木戸の心境は、今一番大切なことは、表面的な開化ではなく、「骨髄中より進歩致し不申候」である。さすがに、『五ヶ条のご誓文』を仕上げた木戸孝允はその先にある国のかたちをはっきり定めたいと考えたのである。

 木戸は明治6年5月に帰朝し、7月に朝廷に対して、『憲法制定の建言書』を上奏している。これを読むと、一国運営の鍵は憲法がどういうものかによると書いてある。そして、政治は君主独裁から始まると一見驚かせるが、漸次民主へ移行すべきとの考えが出ている。また、憲法に関してその頃発表した記事には、「君主は其の制をみだりにせず」とも述べており、君民どうあるべきかの漸進的考え方が読み取れる。
 一方、木戸ほど憲法調査に注力したとは見えない大久保利通が、少し遅れてこの年の11月に、『立憲政体に関する意見書』を伊藤博文と寺島宗則に与えて、政体についての調査を命じている。
 ここで述べているのは、
「今日の要務先ず我が国体を議するより大且つ急なるはなし」は当然として、注目すべきは二つある。一つは、
「政の体たる君主民主の異なるありといえども、大凡土地風俗人情時勢に随て自然に之れを成立するものにして、敢て今より之れを構成すべきものに非らず。また敢テ古に拠りて之れを墨守するものに非らず」 二つは、
「定律国法は即ち君民共治の制にして、上み君権を定め、下も民権を限り、至公至正君民得て私すべからず」
 一つ目は、憲法についての不変の真理を過不足なく見事に表現しており、二つ目は、穏当な立憲主義を目指していることが分かる。

 明治4年横浜港を出港した時点では、木戸と大久保は憲法についての定見など持っていなかったと思われるが、明治6年帰港時には憲法の必要性を認識し、そこに定める国のあるべき姿を二人とも胸中に抱いていた。二人の意図する立憲主義の君民の役割についての考え方も似ている。近代国家とはどうあるべきか、独自の歴史を背負った日本に固有のものに目配りしながら、漸進的に政治を進めていこうという二人の方向性と考え方はほとんど同じといえよう。
 最も開明的、急進的と思われた木戸も、有司専制のイメージが強い大久保も行き着くところの展望は同じであった。
 木戸と大久保の建言書・意見書が出てから16年後、伊藤博文が中心となって作成した明治憲法は、結果的にほぼ忠実に二人の遺志を引き継いでいるように見える。米欧を回覧して短期間に確立した木戸と大久保の足に地のついた先見性に改めて驚く他はない。

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