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エッセイ・コラム

八月

金京 法一

 夏といえば八月が盛りである。しかし、八月は苦手な月である。子供のころ、八月は夏休みで、無条件に楽しい月であった。それが年を取ると共に、苦痛に近い月となったのである。

 何しろ暑い。一歩家を出ると強烈な太陽が照りつける。帽子をかぶっても、サングラスをかけてもあまり関係がない。なるべく日陰をたどって歩くが限度がある。薄着をしていても、じっとりと汗が出てくる。傘をさせばよほど楽かとは思うが、無精なのかわざわざ傘をもって出かけようとはしない。

 家にいても落ち着かない。一人暮らしとなってさしたる家事もなく、家にいてもやることがないのである。それに冷房の利いた部屋でじっとしていてもあまり快適ではない。体がこわばるような感じがしてならない。買い物などいろいろ口実を作って外出する。外出は苦痛を伴うことはいうまでもない。それでも何か有用なことをしたというささやかな満足感はある。
 八月になると、OBペンクラブはじめ、いろいろな会合が夏休みになる。音楽会も定期演奏会のようなメジャーなものは休みである。ただでさえも外出の口実が少ないのにますますそれが少なくなる。

 以前は、朝の早い時間や曇りの日は庭に出て草取りや植木の手入れをしたが、そんな元気がない。つまりやる気がない。それでいて退屈しているのである。残り少ない人生の日々をこんなことで過ごすのであろうか。それでよいではないかとの声が聞こえてくるようでもある。
 日課として午後は散歩に出かける。井の頭公園が近くなのである。昼食後一休みして二時ごろに出かける。歩いたりベンチにかけたりで一時間半から二時間かけて3キロから四キロ歩く。しかし夏の盛りでは二時は一番熱い時間帯である。三時に出かけることにする。すると二時から三時までの一時間の過ごし方が問題になる。何とか時間をやりくりして三時に出かける。公園には似たような老人が結構いて、散歩をしている。犬の散歩している人もかなりいる。犬も暑そうである。
 老人の日々とはいかなるものか、考えたこともなかった。しかしそれが現実になったのである。人によっては、年をとっても気持は青春時代と変わらない、八十歳など序の口だと胸を張る人もいる。それはそれで結構なことだと思う。しかし、年を取って元気がなくなり、孤独になって行くのもこれまた自然の摂理ではなかろうか。あるがままに生きてゆくことも老人のあり姿ではなかろうか。

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