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エッセイ・コラム

ロンジン様

西川 武彦

 8月5日、東京の気温は36℃を超えた。同じ時間、我が家のテラスに温度計を置くと、50℃まで跳ね上がった。アラビア半島並みである。
 余りの酷暑に、外出する気力もなく新聞を捲っていたら、「ロレックス買取大歓迎」という広告が目についた。古い、動かない、壊れた手巻きの腕時計を高値で買取るという。参考買取値段で6万とか。年金生活の爺様は、引き出しに二本のスイス製腕時計が眠っていることを思い出した。外見はゴールド。ひょっとすると、内緒の小遣いに化けて、内緒で遊ぶ?
 ネットで調べると、店頭で現金払いらしいから安心だろう。胸をときめかせながら、二本を取り出して、拡大鏡で繁々とみれば、どちらもロレックスでない。一つは格下のダーヴィルで、色は金色でも紛い物みたいだ。今ひとつは格上のロンジン。
 更にネットで探ると、前者は福沢諭吉札が一枚程度からあるし、手巻きしても振っても目を醒まさないから諦めた。後者は金時計ならウン十万するらしい。重さからもゴールドに間違いなかろう。ネジを巻くと、なんと秒針が優雅に進みだしたではないか。売り飛ばされる気配を察したのかもしれない。
 筆者は、1970年代に、総代理店指定とか航空便乗り入れの下調べなどで、サウジアラビアに何度か出張した。このロンジンは、その頃、アラビアの王子様からお土産に頂戴したものだ。サウジも炎天下では50℃近くあった。砂漠のなかの王子様の豪邸には、木曽馬が屋内にいて驚いたことなど、懐かしい想い出が走馬灯で巡り、手放したくなくなった。
 黄金色の腕時計を左手首に巻くと、愛用している国産製よりずっしり重い。風格がある。問題は手巻きである。腕時計の性能は、半世紀前に比べ格段に進化した。筆者が今使っているのは、明るいところにあれば、自然に充電して動き続ける。
 案の定、一晩外しておくと、ロンジン様はぐっすりお休みになっていた。ともあれ、謂れのある時計だ。これを機にたまにはお洒落で使うのもよかろうし、いずれは葬儀代の足しになるかもしれない、と遊ぶ能力も萎えた隠居は呟いている。

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