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エッセイ・コラム

対馬で頭に描いた建国史

池田 隆

 玄界灘に浮かぶ対馬は南北に長い離島である。各所で湾や入江が山間の奥まで入り込み、平地はわずかである。古代には防人の最前線基地となり、元寇の役では全島が高麗兵に蹂躙された。江戸期には対馬藩が李氏朝鮮との外交や交易を幕府から一任される。明治期に入ると日本海軍の要塞となり、今でも最北端の岬には世界最大の砲台跡が残る。その近くの見晴台から望むと、朝鮮半島の山並みが海峡の先に遠く横たわる。釜山の街の明かりが夜には見えると言う。
 昨夜泊ったホテルには大勢の韓国人が観光に訪れていた。食堂で「何処からですか」と話し掛けられ、「横浜です」と答えると、「ずいぶん遠くからですね」と感心されてしまった。
 島を巡っていると、「阿痲l留(アマテル)」神社という祠のような社を見つけた。天照大神のルーツである「日の神」を祀っている。
 その先の青々とした山に挟まれた渚には、「和多都美(ワダツミ)」神社が海を向いて鎮座する。五つの鳥居が正面に並び、先の二つは海中から聳える。祭神は「海彦山彦」伝説とも所縁の深い「豊玉姫」(神武天皇の祖母)である。
 神話の世界に佇み、静寂な景色を見つめていると、日本の原点に来た気分になり、わが国の建国史を推理してみたくなる。弥生中期から古墳時代に掛けての謎に満ちた原史時代については、諸説紛々で興味深い。今まで読んだ書物からの知識を取捨選択し、旅行での見聞も思い出し、頭のなかで素人なりの建国ストーリーを描いてみた。

 韓国南部と九州北部の両海岸地帯を旅すると、風土や景観が実によく似ている。原史時代には内陸部の交通が発達しておらず、海上交通の方がよほど容易であった。玄界灘を挟んだ両岸では同じ種族の農漁民が一体の文化圏が形成していたのではないか。
 そこでは対馬や壱岐が中心点の役割を担っていたに違いない。やがて陸上交通が発達すると、日本列島と朝鮮半島のそれぞれで多くの小国家が生まれ、両者とも弱肉強食を繰返しながら別々の統一国家として独自の歴史を歩み始める。
 対馬から北九州方面の小国家(天津神系)は勢力範囲を拡げ、同じ弥生系の出雲などの小国家(国津神系)を攻略する。さらに東漸し、太古から列島各所に住む縄文系の民族に稲作文化を伝える傍ら、彼らを支配下に治め、ついには大和を本拠地とした政権を構える。
 七世紀末に全権を掌握した天武朝は、唐などから自国のルーツが新羅や百済などの朝鮮系の国々と同列あるいはその派生国と見なされるのを厭い、天孫降臨神話を新たに纏め上げて国史(記紀)を編纂する。
 そこでは天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、「高天原」から日向の高千穂の峰に降り立ったのが建国の第一歩とされる。神話創作の過程で、対馬・壱岐を中心点とした玄界灘の両岸地帯が、先祖神の住む「高天原」とされたと推察する。

 この神話に基づく国家神道が昭和期に国を滅ぼす一因となったと言われる。しかし二千年近くも続く天皇家は、世界に例を見ない貴重な系譜であり、精神的支柱として多くの国民から尊崇され続けてきた。現代ではルーツを神話で無理に飾ることも、隠すことも必要あるまい。
 縄文系と弥生系、天津神系と国津神系、あるいは民族信仰の神道と渡来の仏教、これら建国当初の大きな国家的対立も歴史上の早い時代に比較的穏便な方策で解消した。我が国の平和的な建国の歴史と方策を、民族間や宗教間で今も紛争の絶えない他国の人々へ紹介したい気持ちに駆られる。

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