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エッセイ・コラム

私の少年時代と大東亜戦争(十二)…終戦

阿部 典文

 大東亜戦争の終焉は夏休みの最中であり、遊びに熱中していたのだろうか、何処で終戦のラジオ放送を耳にしたか或いは終戦を何時知らされた何一つ覚えていない。

 それからしばらくして九月の始め頃であったと思う。 いつものように海岸の松林で遊んでいた時、沖合いの豊後水道を十数隻の米軍艦艇が北上するのを眼にし、終戦を実感することになった。

 その時突然、東京の路地裏の悪童共が、軍歌 「見たか銀翼その勇姿 日本男子が精こめて・・・」の替え歌として歌っていた 「もしも米英が勝ったなら 電信柱に花が咲き・・・」を思い出して、皇国不敗を信じ込まされていた軍国少年の胸に、幽かな悲哀が漂ったことを覚えている。

 そして終戦を境として人々の生活は激しく変わっていった。灯火管制下ではお化けが出ても可笑しくない様な、裸電球が垂れ下がり、うす暗かった田舎の家屋にも灯かりと笑いが戻り、帰京も話題にのぼり始めた。しかし東京は混乱の極みにあり、結局その後一年近く「桃源郷」での生活は続いた。

 勿論、田舎でも様々な混乱が起こっていた。
 例えば佐賀関精錬所への資材を運ぶ軽便鉄道が学校の校庭に隣接していたが、精錬所の活動が休止された為線路が安全な駅への近道となり、学童たちは頻繁に利用した。

 その日豊本線に接続する駅の構内には、重金属供出で全国から集められていた銅のスクラップが山の様に野積みされ、破れた包装袋から大量の寛永通宝などの銅銭がこぼれ落ちていた。
 それを眼にした悪童どもは銅銭を拾い集め、数枚を重ねて木の枝で軸芯を作り、ベーゴマ代わりとして遊びに熱中していた。

 また予科練帰りの若者も散見されるようになり、お前たちは生意気だとの理由で不条理な鉄拳制裁に出会ったこともあった。

 このような情勢の変化は見られたが、素朴な仲間たちとの友情や、まだ元気であった祖母と、暖かい思いやりのこもった従兄弟達との交わりは私にとっての貴重な想い出の一ページを占めている。

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