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エッセイ・コラム

国境を越えて通学した日々

木村 敏美

 今から31年前、42才の夫はマレーシア勤務を命じられ、家族より半年早く出発した。3人の子供の内、長女は現地に高校が無いので、やむなく祖母に預け、私は小5の長男と小2の次女を連れ、38歳で初めて外国の土を踏んだ。赴任先のジョホールバルはマレーシアの最南端で、シンガポールと隣接し、両国はジョホール水道が通っている橋で繋がり、そこが国境となっている。

 先ずはシンガポールチャンギ空港に着いたが、外に出た瞬間大きな温室に入った様なムウッとした熱気に包まれ、これが赤道直下なのかと感じた。それから1時間程で国境を越え現地に着いた。ここでの生活で大変だったのは、日本人学校が無く、シンガポール迄国境を越えて行かなければならない事だった。ジョホールに住んでいる日本人は協力し合ってスクールバスを雇い、子供達は毎日パスポートを持って通学した。
 当時のシンガポールに住んでいる日本人は約2万人、日系企業は840社、日本人学校の生徒数は小中合計で2千人を越し、世界の日本人学校の中で最大だった。ジョホールから通う生徒は30名程度だったが、パスポートを持っての通学は世界でも珍しかった。子供達は命の次に大切なのはパスポートだと言い聞かされ、親達も学校から帰ると何より先にそれを確認した。
 ある日学校から帰った息子が「無い」と言うので青くなった。必死で捜しても見つからず焦り始めた時、違う地区の親から息子のパスポートを預かっていると電話があった。スクールバスの中で中国人の運転手が見つけ、日本人の親に渡せば連絡してくれると思ったらしい。ほんとに助かり、家族中で胸をなで下ろした。
 また、音楽好きの次女は4年生になってブラスバンド部に入ったものの、練習で遅くなるとスクールバスに乗れない。その時はシンガポールでは市営バスに乗り、マレーシアに入ってから公衆電話で連絡し、私が車で迎えに行く事にしていた。待っていたその日、なかなか電話がかかって来ない。日も暮れ始め気が気でなくなった時、しょんぼり1人で帰ってきた。話を聞くと、近くまでマレー人の青年がバイクに乗せてくれたと言う。イミグレーションから家まで海岸添いの1本道で、車で15分、子供だと徒歩で1時間以上はかかる。持っている筈のお金が無い事に気づき歩いて帰ろうとしたが、その遠さに愕然とし、日も落ちて、涙が出てきたという。その時、通りがかった青年が娘の様子に気づき声をかけ、バイクに乗せてくれたとの事だった。携帯電話等無かった時代、娘の心細さを思うと、幾重にも迎えの方法を考えておくべきだった。バイクに乗せてくれた青年がいい人であった事がどれ程幸運であったか、後になればなる程身につまされる。

 当時マレーシアではマハティール首相のルックイースト政策もあって日本人に対して好意的で、街で会う見知らぬ人も視線が合うとよく微笑んでくれた。バイクに乗せてもらった時、疑う事もなく「歩いて帰らなくてよくなり唯々嬉しかった」という娘、親の私もほんとに呑気だった。その後それぞれの国の発展は目覚ましく生活は豊かになったが、どこか生き辛くなった今、複雑な気もする。マレー人、中国人、インド人が上手に暮らしている国で受けた親切のお蔭で、何とか無事に3年半程の海外生活を終える事ができた。温かい思い出を作ってくれた名も知らぬ現地の人達に心から感謝したい。

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