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エッセイ・コラム

荻外荘(てきがいそう)の溜息

三春

 杉並区荻窪二‐四三。ここが「荻外荘」。スマホのMAPを頼りに探し当てた。四〇年近く前には我が住処でもあった荻窪だが、その頃は荻外荘のことなど気にも留めなかった。
 昭和二〇年十二月、戦犯として裁かれることを拒んだ近衛文麿が拘引前夜に服毒自殺した場所でもある。文麿の政治的・歴史的評価は戦後七〇年の今も変わり続けているから、ここでは彼が愛した荻外荘の変遷を辿りたい。
 そもそもは『善福寺川を一望し、遥かに富士の霊峰を眺める高台にある』一町(三千坪)の松林。大正天皇の侍医・入沢達吉がこれを七千円で買った。当時の日本郵船の初任給が東京帝大卒で四〇円、慶応卒で三〇円(大正六年)。社会人一年生の年収の十五~二〇倍で三千坪とは驚きだ。因みに、今年の荻窪二丁目の公示価格は百七十二万円/坪である。
 入澤博士はここを楓荻凹處(ふうてきおつしょ)と呼び、昭和二年に木造平屋を建てた。建築家はあの築地本願寺を作った伊東忠太である。建物玄関近くに応接間と女中部屋、廊下を隔てて居住部分が広がる。
 昭和十二年、文麿が博士に懇願して譲り受け、時の元老・西園寺公望によって「荻外荘」と名付けられた。政府要人が毎日のように訪れたという。文麿存命中の変化は少ないが、書斎を「殿様の部屋」、寝室を「母の部屋」と書き換えられた平面図に華族らしさが感じられる。
 昭和三十五年、玄関と客間部分が巣鴨の天理教に買い取られた。庭の池も埋め、土地の三分の一を売却した。残った敷地一八六二坪、建坪一二四坪。固定資産税や維持費でさえ重荷だろう。
 平成五年には「母の部屋」を貸室用に改装し、同時に「猫の部屋」が増設された。どんな猫が住んでいたのかと想像が膨らむ。
 平成二十三年頃は「荻外荘倶楽部」と称する団体がここで川柳の会を開いていたそうな。ありのままの荻外荘内部に入れる最後の機会だっただろう。
 平成二十四年に次男・通隆氏が八九歳で逝去。所有権が業者に移る可能性が生じた。昭和の貴重な歴史財産が再開発で消滅しないように、杉並区が三十二億円で取得して保全計画を検討中である。私個人としては、必要以上に手を加えない自然な姿を残して欲しい。
 平成二十六年秋、固く閉ざした門の向うから、まもなく米寿を迎える荻外荘の溜息が聞こえてくる。

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