田端文士村
山手線と京浜東北線が分かれるところが田端駅である。開業されたのは明治29年(1896年)のことである。因みに、山手線の品川―赤羽、池袋―田端が開通したのは明治42年(1909年)。
かつて田端は、「日本のモンマルトル」と称された時期があったらしいが、明治の中頃までは、雑木林や田畑の広がる閑静な農村だった。明治22年に上野に東京美術学校(現、芸大)が開校されると、次第に芸術家が集まるようになっていった。
明治の終わりから大正、昭和の初期にかけて、多くの文士や芸術家が住み、室生犀星をして田端を「詩のみやこ」と言わしめた。また、芥川龍之介は武蔵野の面影の残る田端をこよなく愛したという。
その田端駅前に近代的な高層ビルがあり、そのビルに隣接されて東京都北区文化振興財団が運営する田端文士村記念館がある。生涯北区に住み続けている小学校時代の友人と、館長に会って話しを聞く機会があった。
友人が館長に問う、
「何故もっとこの記念館のことを宣伝しないのですか」と。すると、「そうではありません。あなた方に心がないのです」と返ってきた。「新聞や区報その他で紹介しているが、北区民でさえもその存在に興味を持たない。むしろ、遠方から訪れる人の方が多いことに驚かされる」と言うのだ。
「昨日も、新潟から日帰りで東京に来ていた人が、わざわざ訪れてくれている。要は、関心があれば来てくれるので、宣伝したから来るのではないのです」
館長の案内で館内を巡りながら、文士村の謂れについて話を聞く。
学生であった芥川龍之介が1914年(大正3年)に田端に転入して以来1927年にこの地で自殺するまでに、室生犀星、平塚らいてう、サトウハチロー、堀辰雄、川口松太郎など、小説家・詩人・歌人・評論家が続々と移り住んできたことを教えられる。さらに、居住歴一年未満、あるいは芥川自殺以降転入の文士や挿絵画家は、野口雨情、菊池寛、萩原朔太郎、竹久夢二、岩田専太郎、小林秀雄等々の巨匠の枚挙に暇がないと言う。
芥川以前には、1902年に田端で病死した正岡子規、その翌年に転入してきた陶芸家の板谷波山(1963年の没年まで居住)、そしてたった2ヶ月間しか住まなかったとはいえ、岡倉天心の名前を数えるに及んでは声も出なかった。
10年以上の雑誌連載が続いた田川水泡の漫画、『のらくろ』シリーズ第一作(昭和6年)が、この地で生まれたことを知って驚かされる。田端の田川家には一時小林秀雄が寄寓し、小林の妹で作家の高見沢潤子は田川の妻となった。
平成の現在、記念館の辺りを1時間も歩けば、それらの文士・芸術家たちの住んだ跡を巡ることができるのだ。
恥かしながら北区で育ち20年近く住んだが、北区を離れて半世紀を経て、田端が「文士村」の名に恥じないことを知らされたのだ。
(2015.02.09)