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エッセイ・コラム

ブッダの悟り 1.諸行無常

斉藤 征雄

 菩提樹の下でブッダが悟ったものとは何か。それがすなわち仏教の本質に違いない。ブッダの悟りを示すいくつかのキーワードがあるが、諸行無常は最も中核となる理念といわれる。

 無常とは、すべては変化するものであり永久に変わらないものはないという意味である。諸行とは一切のつくられたものを示し、この世に存在するものすべてをいう。したがって自然界の現象、たとえば巨岩が風化して形を変え砂粒になっていくことも無常ということになるが、無常の意味の中心は人間存在についてである。したがって、人はいずれは死を免れないその現実を諸行無常というのである。
 人間は生まれて老病死に苦悩する。それが避けられない事実であるのに、不老不死を願う。あり得ないことを願うために苦が伴う。だから、無常である人間の生存は一切皆苦と規定される。もちろん物事に対して苦ではなく快楽を感じることもあるが、その場合でも快楽が永遠に続くことに執着して苦をまねき、あげく無常の世の常で快楽はいずれ終わりを迎える。そういう意味で人間の生存は一切皆苦というのである。

 諸行無常は仏教思想のキーワードであると同時に、われわれ日本人に馴染みの深い言葉でもある。平家物語の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」はあまりに有名であるし、中世文化を代表する「方丈記」や「徒然草」は無常観が支配しているといわれる。そして現代でも、無常観は日本人意識の深層の基調を成しているとさえいわれる。
 しかし日本人の無常観は情緒的である。無常の現実の実相を捉えているといわれる「徒然草」にしてもその美意識は「花はさかりに月はくまなきをのみみるものかは」であり、極めて日本的で情緒的である。
 それに対してブッダのいう諸行無常は情緒的な問題ではなく、人間存在の哲理として語れる。無常であるにもかかわらず常なることを願い執着する人間に対して、「生じたるものは、またかならず滅す」と断言する。そこには安易な妥協を許さないあくまで理性的、合理的な態度が貫かれている。

 日本的な無常観はもちろん仏教から発しているのは確かだが、なんとなくウエットな雰囲気が漂うのに対して仏教そのものは意外に乾いた思想という印象を受ける。

(仏教学習ノート⑤)

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