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エッセイ・コラム

ブッダの悟り 3.縁起

斉藤 征雄

 ブッダの悟りの核心は縁起という言葉で表わされる。
縁起は、仏教用語では因縁生起を略した言葉である。世の中のあらゆるものは因という直接の原因と、縁という間接的な条件が関係しあって生起するものである。何の原因も条件もなくそのものが単独で生起して存在するものはありえないことを意味する。
 それはもともとの自然の真理(法)であり、ブッダが創り出したことではなくそれに気付いただけであるが、すなわちそれがブッダの悟りなのである。
 縁起の法の基本形は次のように表現される。
   これがあるとき   かれがある   これがないとき   かれがない
   これが生ずるとき  かれが生ずる  これが滅するとき  かれが滅する
つまり、何かの原因によって結果が起こる。逆にその原因が滅することによって結果も滅するということである。原因と結果は二つの葦の束が相互にもたれ合いながら立っているようなもので、どちらか一方が崩れれば片方も立っていられなくなる。単独で存在するものなどはなく相互に関係性を持ちながら存在し合っている(相依性という)のがこの世のあり方であるという。
 たったこれだけのことであるが、これが仏教思想の核心であり、たとえば後に生まれる大乗仏教における空の概念もまた縁起に帰着すると説かれる。

 縁起によって解明される第一は、あらゆるものの存在の原理である。あらゆるものの存在は、それを決定づける条件が変化すれば、そのものも変化する運命にある。条件の変わりようによっては存在しなくなることにもなる。したがってすべての存在するものは、永久に変化しないものはありえない。不変の実体はないということになる。
 これを人間存在に当てはめれば、諸行無常であり、さらに縁起を自我に当てはめれば、不変の実体がないということから諸法無我が導かれる。
 第二は、人間の苦の解消である。無常な世の中にあって人間の存在は一切皆苦である。しかし苦は条件があって生じるものであるから、条件を無くすことによって苦もまた解消することができる。ブッダは生病老死による苦を生起させるものは渇愛であるとした。それを縁起の法に当てはめれば、渇愛を滅することが苦を滅することになるのである。 (その後縁起はより緻密に体系化され、十二支縁起と呼ばれるものでは、真理に対する無知を意味する無明が苦の根本原因とされるようになった)

(仏教学習ノート⑦)

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