ブッダの説法 1.梵天勧請
ブッダの悟りの内容は、甚だ抽象的である。それは宗教というよりは哲学思想といってよい。だから、万人が理解できるものではなかった。特に宗教的救いを求める凡夫の者にとっては、無常、無我、縁起だと言われても救いの足しにはならなかったにちがいない。
ブッダもそのことを感じた。自分の悟った真理は深くかつ微妙であるから、人びとにそれを説いても欲望にまみれた彼らには理解できないだろうと考えたのである。その時のブッダの気持ちを仏典は悪魔がささやきかける形で表現している。「なんのために他人に教えんとするや」 その悪魔のささやきはブッダ自身の心中に発した疑念でもあったのだろう。ブッダは、自らの悟ったことを人びとに説法することに躊躇し、自分だけが涅槃の世界に入ることを考えるのである。
このブッダの気持ちの動揺を逐一察知していた者がいた。天界にいて世界を監視していた梵天である。梵天は、ブッダが偉大な悟りの内容を封印してしまって人びとを教え導かないならば、人びとは永遠に救われずこの世は破滅すると思い、ブッダの前に現れて人びとに教えを説くように三度にわたって勧めたのである。
それを聞いてブッダも自ら世間を観察した。そこにはあたかも蓮がさまざまな形で花を咲かせるように人びとにも種々相があることを知って、真理を理解する人びとが必ずいることを確信して説法を決心したとされる。以上の説話を梵天勧請という。
梵天は、サンスクリット語でブラフマンといい、バラモン教では万物創造の絶対神と位置付けられている。それを仏教がとりいれて仏教の守護神としている。荒唐無稽とも思えるが、梵天に請われてブッダが説法を決意した形式をとることによって、バラモン教を否定して仏教が真理を説いていることを人びとに印象づける意図がある考えられる。
また悟った直後のブッダが人びとに対する説法を躊躇したが、梵天勧請によって一転して説法に傾いたのは、説法することによって自分の悟りについての確信を深めたいというブッダ自身の葛藤があったとも解されるのである。
ブッダが説法を決意したことで、宗教としての仏教がスタートしたといってよい。その契機となった梵天勧請は、仏教にとってはきわめて重要な意味をもつ。これなくば仏教は興らなかったといっても過言ではない。
(仏教学習ノート⑧)