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エッセイ・コラム

デイム・マードック、そして『アイリス』

平尾 富男

 些か旧聞に属するが、自分の夫によるアイリス・マードックの伝記を基に映画化された『アイリス』(2001年制作)が、NHK衛星テレビで放映された。2007.01.27のことである。その前に日本で劇場公開された時に既に観ていたが、改めてテレビを見て録画をした。
 認知症と終活が、現代人にとっての重要なテーマとなっていることを考えると益々価値のある映画である。

 男性のナイト(Knight)に当たるデイム(Dame)の爵位を授与されたジーン・アイリス・マードック(Jean Iris Murdock)は、英語圏では「最も素晴しい女性」と称賛された著名な作家、哲学者である。残念なことに、日本では英文学や哲学の専門家やその分野に造詣の深いごく一部のサークルにしか知られていない。哲学に関する評論の他に、生涯に26冊もの小説を書き、その多くが邦訳もされているのに、である。
 代表作には、処女作で「怒れる若者たち」(“Angry Young Men”)の代表作品となった1954年発表の『網のなか』(“Under the Net”)をはじめ、シェイクスピアの『ハムレット』を下敷きとした1973年の『ブラック・プリンス』(“The Black Prince”)、表紙に葛飾北斎の波の絵が使われたブッカー賞受賞作品の『海よ、海』(“The Sea, the Sea”)等がある。

 彼女は1919年にアイルランドに生まれ、幼いときに両親に伴われてイギリスに移住し、オックスフォード大学で古典と哲学を専攻した。大学で専攻を極める中で、プラトン(Plato)、フロイト(Freud)、そしてサルトル(Sartre)から大きな影響を受け、その後の奔放とも乱脈とも評された「自由を愛する生き方」と著作そのものにその傾向は顕著に見られるようになった。その作風は、時にお得意の哲学的シンボリズムを紛れ込ませた知的な難解度で読者を惑わすと同時に、性描写と奇想天外な筋・構想で読者を驚かす。
 ケンブリッジ大学でも研鑽を積むと卒業後には、オックスフォードに戻り15年間哲学の教鞭をとった。知性とウィットに富んだ才色兼備な彼女の周りには、多くの仲間が集まってきた。レスビアンと噂された友人女性との交流は生涯続いた一方で、「誰とでも寝る用意があった」と本人も認めるようなオープンな生活の中で、小説を次ぎ次ぎと発表し、有名になっていく。37歳のときに6歳年下のオックスフォード大学出身で同大学の英語教授、そして文芸評論家としてもアイリスのよき理解者となるジョン・ベイリー(Barrington John Bayley)と結婚する。

 二人の晩年は、40年の歳月を経て深い愛情の絆で結ばれていく。この間三度も夫婦揃っての来日も果たしているが、老年を迎えるとアイリスはアルツハイマー病に侵され、ついに1999年の2月に帰らぬ人となってしまう。享年79歳だった。
 映画『アイリス』は、アイリスがアルツハイマー病と闘う生活を送る中で、献身的に彼女に連れ添う夫ジョンが綴った回想録を基に制作されたものである。舞台・映画女優としての功績から爵位を授与されているイギリスを代表する大女優ジュディ・デンチ(Dame Judith Olivia Dench)が渾身の演技で難病と闘う老いたアイリス・マードックを演じた。『タイタニック』(1997)のローズ・デヴィット・ブカター役で出演していたケイト・ウィンスレット(Kate Winslet)演ずる若き日のアイリスと、老いてからのアイリスを同時進行で描くという手法を取りながら、男女の愛、老い、そして死を深く見つめる感動の映画だ。

 映画の始めで、デンチ演じる水着姿の老女マードックが水中を泳ぐ映像と、ウィンスレット演じる若きマードックが全裸で水中を遊泳する映像と交錯し、観客を驚かせる。映画の全編を通して、自由奔放に生きる若きアイリスと、アイリスが乗り移ったようなデンチ迫真の演技による晩年の落ち着いた貫禄のアイリス、そして難病の進行による虚ろで痛々しいマードックが錯綜する。まさにアイリスの人生を象徴するかのようである。また、自らが生まれたアイルランドを想い、アイリッシュ・トラッド(“Lark In The Clear Air”)をデンチが優しい声で物悲しく歌う場面も印象的である。

 因みに、名女優ジュディス・デンチは、舞台女優としてトニー賞、ローレンス・オリヴィエ賞など数々の賞を受賞している他、映画では『眺めのいい部屋』(“A Room with a View”、1986)、『ハムレット』(“Hamlet”、1996)、『至上の恋』(“Queen Victoria”、1997))、『恋におちたシェイクスピア』(“Shakespeare in Love”、1998)、デンチと同様にデイムを冠せられるマギー・スミス(Dame Margaret Natalie Smith)との競演作品『ラヴェンダーの咲く庭で』(“Ladies in Lavender”、2004)、『プライドと偏見』(“Pride & Prejudice”、2005)、『007カジノ・ロワイヤル』(“Casino Royale”、2006)等数多くの作品に出演している。
 蛇足ではあるが、2006年末に日本で公開された『ヘンダーソン夫人の贈り物』(“Mrs. Henderson Presents”、2005)は、第二次世界大戦前夜に富豪の夫に先立たれた上流階級の老婦人が、経営困難に陥った劇場オーナーになるという実在の物語。デンチは、この映画でも主役のヘンダーソン夫人役に挑んで、奇抜なアイディアで当時禁じられていた女性のヌードを舞台に上げて戦争に赴く若い兵士たちに一時の慰安を与えるというコミカルながらも、人間味溢れる人物像を見事に演じている。

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