二人の女
ワインを本格的に飲み始めてから足掛け四半世紀が過ぎました。ストレスが重なり、それを酒で紛らわせたのが祟ったのか、ガンを患い、胃を三分の二切除したのが54歳です。
退院に際して、主治医から、「酸性のアルコールでなく、これからは赤ワインがよいかも。食欲が湧き、小さい胃の働きを助けてくれますよ」とのアドヴァイスを頂きました。以降、赤ワインという名の魔性の「女」と深く付き合うようになったのです。
とはいえ、シャトー・マルゴーというわけにはいきません。サラリーマンを卒業したご隠居さんがもっぱら買い求めているのは、特別セールの三本で3000円+税という程度です。ワインアドヴァイザーが複数いる、名が知れたワイン専門店だから、品物に間違いはありません。
デカンタージュするため、そのレベルの赤ワインに見合った底の広いデキャンタを求め、来客があって一本飲むときは、ボトルからそれに移してしばらく置いてから味わいます。
一人の場合は、一本を二日で空けるから、デキャンタには移さず、ボトルに残った半分は、空気を抜き出す仕掛けが付いたゴム栓で閉めて、翌日に廻します。
その道に詳しい開高健さんは、『知的な痴的な教養講座』(集英社文庫)で、一本のワインには二人の女が入っているといわれます。一人は、栓をあけたばかりのときの処女、もう一人は、デキャンタージュして、それが熟女になった姿という。人間の女で、これを楽しもうと思うと時間がかかるが、ワインならこれが三十分で味わえる。ただし、人間の女とワインの違うところは、ワインは栓をあけて処女を楽しむが、人間の処女は栓をして味わうことだとか……。
筆者の場合、特別セールで時折品替えされる、フランスはボルドー生まれの女たち、スペイン・ポルトガル・チリ・アルゼンチン・イタリアの女性たち、アメリカやオーストラリア生まれも…。その昔、ソ連領だったグルジア(GEORGIA)で味わった女もなかなかよかったですよ。ほぼ毎日飲んでいるから、毎週三本として年間52週で約150本。これが25年続いているから、4000本近くなります。一本のワインで二人の女を味わえるというなら、その二倍もの数になるわけです。若い頃、「千人斬り」などと勇んだ夢を、ワインという名の女に出会って果たしたことになります。
開高さんは、デキャンタに市販の「尿瓶」を使ったそうです。彼が好んだ「女」にぴったり合ってよろしかったといいます。でもそれだけはご勘弁願いたい感じです。平均寿命を間もなくに控える筆者は、何年かのちには、寝たきりの半介護状況となるかもしれません。そのとき、夜中に美味しい「女」を夢見て、思わずベッド脇に置いた尿瓶の「白ワイン」に手が伸びるなんて、怖ろしいではありませんか。
「死ぬまで現役」を願って、今夜も新しい女を両手で優しく抱き、優しく栓を抜きながら、ご隠居さんはそう呟いています。