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エッセイ・コラム

説一切有部のアビダルマ 2.世界を構成する要素は実在として「ある」

斉藤 征雄

 あらゆるものは単独で存在するものなどはなく、相互に関係性を持ちながら存在し合っている。縁起と呼ばれるこの原理によって、あらゆるものに永久不変の実体はなく、人間は無常であり無我であるとするのがブッダの悟りすなわち仏教教理の核心である。
 仏教では、人間を構成している要素を五蘊(色受想行識)という。色は肉体を指す。あとの四つは精神的要素つまり外界からの刺激に対する心的反応をいい、刺激を感受する受、感受したものを意識して心に描く想、それによって心が動機づけられる行、それらをつかさどる意識の総称としての識である。この五蘊が人間を構成するすべてとされる。
 また別の観点からみれば、われわれが住む世界は人間の認識がすべてであるという。認識を構成するのは人間の主観的要素と認識の対象となる客観的要素である。したがってこの二つが世界の構成要素ともいえる。主観的要素とは、外界の刺激を感知する眼耳鼻舌身意の六つの器官(六根)を指し、客観的要素とは、外界の刺激そのもの、つまり色声香味触法の六つの対象(六境)を指す。(六根と六境を合わせて十二処という。さらには六根から心のはたらきの部分を取り出してこれを六識とし、六識と十二処とを合わせて十八界とする分類もある)
 ブッダの生前の教説をまとめたアーガマ(阿含経)は、以上のような人間あるいは世界を構成する要素(五蘊、十二処、十八界)のどれをとっても、そこに自我というものは見当たらないということで諸法無我を説明した。
 有部の論師たちも、アーガマの教えに忠実であろうとした。彼らが考えたのは、人間あるいは世界を構成する要素をより緻密に細分化することだった。それによって無我も一層明確に説明できると考えたのである。すでにある五蘊、十二処、十八界をベースにして、存在の構成要素を細分化していった結果到達したのが、ダルマといわれる単位である。この単位はそれ以上分割できない究極の構成要素である。その構成要素の中には自我は見出されないし、そしてすべての現実の世界はこのダルマが無数の因果関係を結んで構成されているから不変の実在ではありえないつまり無常であるというのである。
 ここまではブッダの悟りと矛盾するところはないが、有部の論理はさらに発展する。すなわち現実の世界は実在ではないが、彼らがダルマと呼ぶ、世界を構成する究極の要素は実体をもち実在として「ある」とするのである。それ以上分割できない極小の構成単位は、他の条件によって左右されることなく単独で存在する、つまり縁起の原理が働かないと考えたと想像される。それではどのような形で「ある」というのか。それが有部の特殊な存在論なのである。

(仏教学習ノート⑮)

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