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エッセイ・コラム

今日は大山が見えるか?

浜田 道雄

 前夜東京に泊まった日、熱海の家に帰る湘南新宿線の車中で、読んでいた水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』から眼をあげ、窓の外を見た。電車は戦後まもなく住んだことのある馬込のあたりを走っている。その昔の思い出からだろうか、なんとなく懐かしさを誘う家々の上には、夏の眩しい青空が点々と白い雲をあしらって輝いていた。
 そんな夏空を眺めるともなく眺めながら、ふと思った。

「この電車から、今日は大山が見えるだろうか?」

 二十数年前、小田急の鶴巻温泉駅にほど近い丘の上にささやかな庭のある小さな家を建て、家内と暮らしはじめた。三十年近く勤めた公務員生活を終えて、すこし気楽な仕事に就いたころである。
 庭の一角は畑にしてハーブや香菜、トマトなどの野菜を植え、居間から眺める南側は盛り土をして小さな山水とし、低く刈り込んだ木々と山から採ってきたリュウノヒゲやモジズリを育てて、“わが家の里山”を作り上げた。

 しばらくして、生まれて間もないメスの仔ネコが一匹、また一匹とやってきてその小さな家に住みついて、私と家内の二人暮らしはすぐに二匹のネコを加えた四人暮らしになった。
 ネコたちは私の作った庭を大のお気に入りとして、若いころは日がな一日庭を走り回り、年をとってからは下草の陽だまりに寝そべって日を過ごした。

 私たちもこの家と庭がたいそう気に入っていた。庭の手入れをしたり、近くの山を歩いたりしながら、ネコたちとともに自然に親しみ、のどかな日々を楽しんだ。そんな暮らしが二十年近く続いた。

 家からは相模の大山がよく見えた。だから、私たちの鶴巻温泉での暮らしは、大山とともにある日々でもあった。大山は、あるときは家内と一緒にその山頂を目指して歩くとき、汗を拭きながら見上げる山だったし、あるときは庭仕事のあいだに疲れた腰を伸ばし、空を見上げた眼に飛び込んでくる山だった。
 また、あるときは足にすり寄ってきたネコどもを抱き上げ、その背を撫でながら眺めて、「大山の頂に雲がかかっているよ。明日は雨だね。山歩きは無理かもね?」と、家内に話しかける山だった。

 大山は季節の移ろいを知らせてくれる山でもあった。冬の重い雲の下では淡く雪をかぶった姿を見せ、春の日差しの温かくなるころには木々の芽吹く淡い茜色の衣をまとい、また初夏には新緑の明るい萌黄色に包まれ、秋には紅葉して、私たちの眼を楽しませた。

 だが、大山はなによりも、私が家を留守にした旅行の帰りや毎日の勤めからの帰りに、新幹線の車窓からそのピラミッド型の山容を見て、家で待つ家内やネコたちに「や〜!帰ってきたよ」と心の中で呼びかける山だった。

 そんな大山が身近にあった日々は、いまはない。自分たちこそこの家の先住者だと、のさばり返っていた二匹のネコは、二十年もの長寿を保ったあと三年ばかり前あいついで亡くなった。そして、私と家内はネコのいなくなった鶴巻温泉の家を捨てて、熱海の海の見える家に移った。

 その家内も三月あまり前逝ってしまい、私はひとりになった。いまや大山を見ても、あの小さな家で四人が過ごした日々の思い出を語る相手はいない。車中から「帰ってきたよ」と呼びかけても、家で待つものはだれもいないのだ。
 それなのに、なぜ私はこの車中で、「今日は大山が見えるか」と思ったのだろう?
 山の姿を見ながら、さきに逝ってしまった家内とネコたちに、なにかを呼びかけてみようと思ったのだろうか?
 そんな思いははかない感傷でしかない。それを一番よく知っているのは私なのだ。索漠とした思いが心に広がるなか、ふたたび大山の姿を思い描いてみた。

 しばらく窓の外を飛んで行く家々を眺めたあと、私は頭を振って大山の幻影を振り払うと、また本を取り上げ、読みはじめた。

 ふたたび眼をあげたときには、電車はすでに国府津の近くを走っていた。大山はもうはるかうしろに過ぎ去っている。

(2015.08.25)

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