説一切有部のアビダルマ 3.刹那滅と三世実有・法体恒有
有部によれば、この世界はダルマと呼ばれる存在の究極的な要素によって構成されている。(ダルマは五位七十五法という方法で七十五種に分類されるが、省略する)
すべての現象世界はこのダルマが無数の因果関係を結んで生起して現実の存在になる。具体的にいうと、生起した存在は生起した瞬間に消滅し、次の瞬間には新たな因果関係が結び直されて新たな存在が生起する。その瞬間、瞬間が積み重なってわれわれの経験的な現象世界が成り立っているという。(刹那滅)
したがって因果関係を結ぶダルマの構成が変わらず瞬間、瞬間に引き継がれて生起すれば存在に変化は起こらないが、ダルマの構成が変化すると存在も変化する。因果関係が消滅すると存在そのものも消滅することになる。このようにあらゆるものはダルマという要素の組み合わせ、つまり和合してできた存在である。だから常に変化する運命にあるので不変の実在ではない「仮有」の存在とされるのである。(諸行無常、諸法無我の根拠)
一方構成単位であるダルマは、これ以上分割できない極微の単位であるから、不変の実在、つまりそれ自体で存在する「実有」とされる。
繰り返しになるが、複数のダルマがある瞬間に縁起の法が働いて、集合し現在に現れて一つの現象が生起する。しかしその現象は刹那滅であるから、瞬時に消滅してダルマは離散する。それが瞬間、瞬間で繰り返され積み重なって現象世界が成立するという。その場合、集合・離散するダルマはどこから現れてどこへ消えるのだろうか。
有部はそれを、未来の領域から現れて過去の領域へ去ると説明する。つまりダルマは、過去、現在、未来の三世にわたって実有の状態で存在するというのである。(三世実有。法であるダルマが三世にわたって恒存するから、法体恒有ともいう)
この過去、現在、未来は時間軸としてとらえるよりは、位相というような概念でとらえた方がわかりやすい気がする。ダルマがこの世を構成する要素としての機能を果たしている瞬間が現在、機能する前の位相が過去、後が未来ということなのだろう。
以上のように有部は、存在の要素を精緻に分析することによって無常、無我を究明した。しかしそのことによって存在の構成単位である極微のダルマ(法)というものの存在にいきついたためにそれを実有とせざるを得なくなったのである。こうした有部の立場は後に「我空法有」と呼ばれるようになる。そしてそれは、大乗仏教の説く「我空法空(我法倶空)」と鋭く対立するのである。
(仏教学習ノート⑯)