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エッセイ・コラム

深刻なバスの運転手不足

濱田 優(ゆたか)

 テレビレコーダーのハードディスク残量が乏しくなったので、不要な録画を削除することにした。タイトルとの映像をちょっと見て要否を判断しようとしたが、本の整理のときと同じく、内容に引き込まれて出だしだけではすまなくなった番組がある。
 昨年8月末に放映された「突然バスが暴走」と題するNHKクローズアップ現代だ。
 冒頭の車載カメラが写した名古屋の市バスの車内光景の映像は何度見ても衝撃的である。11人の客を乗せて住宅街を走っているバス運転手の体が、突然窓側に傾き意識を失う。気付いた乗客が騒いでも意識は戻らない。暴走するバスはセンターラインを越えて、4台の車を巻き込み、3人が負傷した。運転手は48歳。意識不明の原因は胃の腫瘍からの出血だった。
 事故のニュースはたいてい事後の惨状の画像が映るだけなので、事件の一部始終を撮った動画は珍しい。今回の事故は小規模といえ、パニックに陥った乗客の様子やセンターライン越えて走る車窓の情景などインパクトは強烈である。
 続いて、番組はこうしたバスの事故の現状や原因の解説をするが、これがまたショッキングな内容だった。それでつい、その録画を最後までまた見てしまった。

 市民の足として親しまれている路線バスでは、乗客の唯一の頼りが運転手で、彼に全てを託している。バス会社は当然彼らの健康管理には万全を期しているはずであり、こんな事故はめったに起こらない、と思っていた。ところが実際は、この4年間に運転手の体調急変によるバスの事故や運行中止が210件もあり、死傷者は196人に上る(NHK調べ)と聞いてびっくりした。
 労働災害において、1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在するという、有名なハインリッヒの法則 がある。この経験則に照らしたら、バスの大事故が何件あっても不思議ではない。
 安全第一がモットーの公共交通機関で、なぜ、こうした事故が続発するのか?
 国谷キャスターの突っ込みに、識者や業界内部の人は、問題の根っこに深刻な運転手不足があると明かす。
 要員不足が常態化して人繰りに無理を重ねているので、健康診断で精密検査が必要という警告が出ても再検査に行くことがなかなか出来ない。それでさまざまな健康懸念を抱えた運転手がハンドルを握り続けていることが多い、という。ちょっと信じられない話で怖くなる。
 昔はバスの運転手は花形で待遇も良く若者たちに人気があった。ところがここ十数年の間に規制緩和でバス業界の競争が激しくなり、そのあおりで運転手の待遇がどんどん悪くなって、魅力のない職場になった。
 それで若い人が入らず、高齢化が進んで、今やバスの運転手の平均年齢は48歳以上で産業界の平均より5、6歳高い。年齢構成は、20代は僅か3%、30代を含めても若手は四分の一しかおらず、中高年が大半の職場になった。新人が来ないと退職者の補充にもことを欠く。路線バスの運転手の数はピーク時の11万人から2割以上減少したと聞く。そしてこの傾向は現在も進行中である。

 バス業界が抱える人手不足と高齢化の構造的問題を、中高年者の運転手にしわ寄せをして何とか凌いでいる構図が浮かび上がる。これでは高齢者でなくても心身の健康を損ねてしまう。実際、運転手は脳や心臓の疾患につながる高血圧の人が多い、という医師の分析結果も出ている。
 バスの運転手は、公道を他の車と一緒に走るので気疲れをするし、車内安全や接客に気遣いもする。精神的にも大変な激務で健康リスクが高まるだろう。昔は、女性の車掌がいてきめ細かい補佐をしていた。
 大事故が起きる前に、まず運転手の健康管理を徹底させないと大変なことになる。
 3年前の2012年4月28日、連休の前に起きた関越道高速バス居眠り運転事故は、乗客7人が死亡、乗客乗員39人が負傷した大事故で世間に衝撃を与えた。そのとき管理不行き届きの格安ツアーバスが問題になり、結局、高速ツアーバスは廃止されて高速路線バスに集約されることになった。他山の石は身近なところにあるのだ。

 今回のNHKの番組は問題提起までが主であったが、ただ一例、現状の改善に努めている静岡のバス会社の事例を取り上げていた。
 この会社は、2年前に2件続けて走行中に意識を失った運転手による事故を起こし、乗客など11人に怪我をさせた。それで危機感を強め、1年前に健康診断に加えて「脳ドック」の導入をはじめたところ、高血圧を指摘されていた運転手(56歳)に動脈瘤が見つかり、すぐ手術をしてことなきを得たそうだ。
 この会社は大手で約700人の運転手を擁している。それでも人繰りや費用がネックとなって、まだ脳ドッグ検査対象者の五分の一の人しか検査を受けていないという。
 またこの会社は、長期的な観点から若い運転手を増やそうと高校新卒の採用に力を入れている。バスの運転に必要な大型二種免許の取得には、普通免許を取ってから3年経過することが必要だが、会社はこの間の仕事も免許取得費用も丸抱えで面倒をみるという。この優遇処置に惹かれて入社を希望する人もいるが、彼らが戦力になるまでは前途遼遠だ。

 番組の最後に、国谷キャスターが「企業の自主的努力では限界がある中で、国は対策を取っていないのか?」と迫ると、識者は、国も業界と協力して様々な対策を講じていると前向きの説明をする。その一方で財政難などの問題点をあげて取組が進まない釈明をするから歯がゆい。安全や路線の確保に事欠くほど現状を改善するための財源が不足なら、身近なところでシルバーパスの負担額を上げることもやむを得ないと私は考える。シルバー仲間に謗られるかもしれないが、既得権に拘っていたら現状も保てない。
 NHKは、せっかくここまで切り込んだのだから、関係者のその後の取組をしっかり追跡調査して報道して欲しい。

 この番組放映から1年、路線バスの事故は少なくなっただろうか。統計データーはわからないけれど、負傷者十数人くらいまでの事故は、相変わらず起きているようだ。今年の1月には、私が普段使っている東急バスが、ドライバーの居眠り運転で乗客17人に怪我をさせる事故を起こした。まさに危険が身近に迫ってきた感じ、バスに乗るとき運転手に「お元気ですか」と尋ねたくもなる。

 ここで視点を変えて、この問題を日本の労働力事情から考える就職関係の専門家の提案を紹介する。
 少子化で労働人口が減っているなかで、労働余力が残っているのは、高齢層の男性と女性だけといわれている。
 バス業界は、新卒の採用ができなくなってから積極的に中高年の男性の中途採用を進め、一定の成果をあげてきた。しかし、即戦力になる大型二種免許を持っている人は、いま引っ張りだこで、勢いのある建設業界などと奪い合いになっている。そこでバス会社は待遇改善に努めるとともに、免許取得助成制度を設けて採用対象者の拡大を図っている。が、現状維持がやっとで限界に近い。
 一方、女性は結婚後、出産・育児世代(25歳から44歳)に就業率はM字を描いて大きく下がるが、潜在的労働力率は高く、就業率を大きく上回っている。だから、女性に適した仕事で、女性が働きやすい環境を用意すれば、その労働力を活用する余地は充分あるという。
 しかし、バスの運転手は男の仕事で、女性には向かないようにみえるが、どうだろう。意外に路線バスの仕事は女性に適していると、その専門家はいう。
 まず、地域密着で通勤時間が短く、普段の生活圏で働くのでストレスが少ない。
 それに、路線バスは決められた運行スケジュールで走るので不意の残業はほとんどないから、家事や育児と両立しやすい。
 もし、子育てに専念するために退職しても、技術専門職なので同じ職場に復職し易い。
 もちろん、大型二種免許を取得して実践教育を経て一人前になるには相当の努力が必要だけれど、車の運転が本当に好きなら生涯安定して働ける。
 バス業界も女性に期待し、女性が働きやすい環境つくりなど受入れ体制を整えている。
 最近では、タクシードライバーやトラック運転手(トラガール)、それに土木建築作業者(ドボジョ)など様々な分野に女性が進出して活躍している。バスの運転手という仕事も選択肢の一つとして前向きに考えてもいいと就職の専門家は薦めていた。

 そういえば、近頃バスに乗って女性の運転手をときどき見かけるようになった。よく見ると若い人もそうでない人もいる。当たりは柔らかく、生真面目に指差呼称を行っていて好感が持てる。まだバス運転手に占める比率は1.4%(日本バス協会調べ)でまだわずかだけれど、彼女たち増えれば市民の足の担う路線バスの貴重な戦力になる。
 昔、バスの運転手が花形といわれたころは、車掌のバスガールが沢山いて職場は華やいでいたに違いない。これから、運転手のバスガールの存在感が強まれば職場の景色も変わるだろう。キラキラ輝く女性運転手が多くなれば、男性は活気づくし、自然と若い男も寄ってくるかもしれない。

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