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エッセイ・コラム

ひとひらの蝶

池田 隆

 書斎でファイルボックスから資料入りのA4版ビニール袋を取出していると、この整理法を始めた四十年前が蘇えってきた。
 重電工場の設計課長だった。設計部員は工場内で若いエリート集団と見なされていたが、実情は古びた建屋内の設計室で乱雑に置かれた図面や書類に埋まり、うす汚れた作業衣姿で働いていた。
 数十名の課員は庶務担当一人を除き、全員が若い男性である。朝夕、皆が自席で着替えていた。
 ある年に庶務担当にミッション系短大卒の女性が配属されてきた。今では名前も思い出せないが、おきゃんな美人である。
 課の庶務にこのような高学歴の女性が来るのは珍しい。人事部長に訊ねると、工場地元の有力者からの紹介で、婿探しが目当てらしいとのこと。面倒な役まわりだと思ったが、課員たちは色めき立ち、職場の雰囲気は急に華やいだ。
 入社早々にも拘らず、「男性が若い女性の前でズボンをはき替えるなんて野蛮です」、「男性トイレの扉は閉めてください」、「このようなファイルボックスとA4版ビニール袋を買って書類を整理しましょう」と私に抗議や提案をしてくる。
 私自身も以前より職場を欧米風にもっとスマートにしたいと思っていた。ただ長年の風習を改めることへの抵抗は強い。これ幸いと、「彼女からの提案だよ」と課内で紹介したところ、途端に皆が賛同し始めた。
 書類の整理整頓が進み、ロッカーで囲った着替えコーナーも設け、職場は見違えるようになった。男子トイレの扉を閉める習慣もついてきた。
 ところが彼女は一年足らず在籍すると、ファッション界へ進みたいと退職してしまう。魅力あるお相手がいなかったせいだろう。一同唖然とし、中には「肩に止った蝶が飛び去った」と呟く者もいた。
 ただこの蝶が産み残した卵は見事に孵化成長、工場中へ広まり、その一端が今のわが書斎にまで及んでいる。
 改めてわが身をふり返ると、長いようで短い在世期間で、残りもあと僅か。蝶のように何かを置いて飛立てるだろうか。

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