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エッセイ・コラム

新憲法誕生の経緯とアメリカの思い

大平 忠

 安保法制をめぐっての憲法論争がにぎやかであった。そこで、70年前に戻って、新憲法誕生の頃の様子を復習してみたい。

 1945年12月、モスクワの三国外相会議で、日本の今後の占領施策についての最高機関である「極東委員会」は11ヶ国で構成されることが決まった。これまでは、日本における占領施策は、GHQとアメリカ国務省によって執行されていたが、今後は「極東委員会」の承認が必要となったのである。この「極東委員会」の第一回会議がワシントンにおいて、1946年2月26日に開催されることが決められた。

 これを受けて、マッカーサーは日本国憲法の草案作成を急がせることになった。マッカーサーは、日本の今後の占領統治に天皇制は不可欠であり、占領政策もスムーズにいくと確信していた。しかし、中国、ソ連、オーストラリアなどの諸国では天皇制廃止の声が上がっており、「極東委員会」の会合の前に、草案を作り終えておきたいと考えた。
 日本側にも新憲法草案作成を急がせたが、松本烝治憲法相の原案が不満足であり、修正案を出させたものの占領軍からみると極めて不十分なものであった。これでは「極東委員会」で承認されないと、マッカーサーはGHQ民政局が中心となって草案作成することを命じたのであった。(中心となったのはニューディル派のケーディスであった)
 時間は限られており、そのため2月2日から12日という短時日で昼夜分かたずの作業となったのであった。このとき、マッカーサーが作業チームに指示した三原則が「天皇制の維持、戦争の放棄、封建制度の廃止」であった。3月、日本政府は自ら作成した如く「憲法改正草案要綱」を発表した。

 結果的には、その後の「極東委員会」における審議は紆余曲折を経たものの、GHQ草案に対して若干の訂正を命じたに留まり、「天皇制の維持」は、承認された。このわずか10日あまりで作られた速成新憲法には、いま見ると随所に欠点がある。とはいえ、2月26日の前に作られたからこそ、天皇制は無事に維持されたといっていいのかもしれない。もしそうだったとすれば、急ぎ作成した意味は大きかった。しかも、今見ると自虐に過ぎる条文だったからこそ、中国、ソ連も承認したともいえる。

 ということは、皮肉なことに日本はマッカーサーと共にケーディス等にも助けられたというべきなのだろうか。

 もう一つ、この憲法は決して「押し付け憲法」ではなく自主憲法といってもいいという説がある。日本側民間ベースで検討された鈴木安蔵を中心とする「憲法研究会」の草案を、GHQは参考にしているからというのがその理由である。確かに、比較してみると共通点はある。明治10年代の民権運動時代に生まれた植木枝盛の私擬憲法の流れも汲み取れる。
 しかし、鈴木安蔵なる人物を調べていくと、戦前は学生運動に携わりマルキストであった。戦後は、後にソ連コミンテルンの一員であることが判明して自殺したE.H.ノーマンとやはりアメリカ共産党の秘密党員だったといわれる都留重人との交流があったこと。両人の働きかけで「憲法研究会」が作られたこと。などなどが明らかになってきた。
 やはり、事前に準備されたいわばやらせの「日本人の自由意思による自主憲法」であったとみるのが至当であろう。

 1947年5月日本国憲法施行の頃には、 アメリカ占領軍は東西対立の国際情勢と日本国内の左翼化に危惧を感じ、保守派ウィロビーの発言力が次第に増し、民政局長ホイットニー、ケーディス等ルーズベルトニューディール派のメンバーは1948年から9年にかけて影響力を減じつつ消えていった。1949年には中華人民共和国が誕生し、1950年6月には朝戦戦争が勃発。ダレスが日本再軍備を言い出す。占領政策は、逆コースへと方針が転換する。ダレスは、恐らく戦後の日本占領政策でGHQ民政局の取ったニューディル派の施策に、日本国憲法を含めて苦い感慨を抱いたに違いない。

 この頃から、国内では野党並びに進歩的文化人の「再軍備反対」「若者よ、銃を取るな」のシュプレヒコールが響くようになった。考えてみればその主潮が今日まで安全保障問題が焦点を浴びる度に、甦ってくるようである。

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