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エッセイ・コラム

安倍首相がノーベル平和賞候補?

内田 満夫

 本年度のノーベル賞週間が終わった。昨年につづき、先進的な業績をあげた日本人研究者の受賞があったことは喜ばしい。
 ノーベル賞については、かねてから疑問に思っていることがいくつかある。なぜ受賞対象を生存者に限定しているのか? 業績に名を冠しながら、受賞対象から外れた不運なケースが今回もあった。ノーベルの遺言とはいえ、受賞対象部門の限定は如何なものか。物理学はあるが、その理論構築に不可欠の数学は対象外だ。文学はあるが歴史や哲学は対象から除外されている。
 問題の多いのが平和賞である。平和や人権に対する活動の評価は、立ち位置や見方によってまったく違ったものになる。紛争を起こした一方の当事者が受賞することもあった。日本の佐藤栄作元首相が受賞した時には、国民こぞって祝福する空気にはならなかった。核兵器廃絶の提唱で受賞した米国のオバマ大統領は、その後空爆に踏み切っている。
 最大の疑問。そもそもノーベル賞は、北欧の一国が創設した私的な賞ではないのか。 業績評価の妥当性、客観性が確保できるのか? 対象となる業績の功労者をあきらかに見誤った例がある。佐藤元首相の受賞理由となった非核三原則には、それを破る密約のあったことが後に露見した。実績なしで受賞したオバマ大統領に対しては、賞の関係者があとになって返上要請を口走るお粗末も。全世界こぞっての注目と、受賞者に対する破格の賞賛と尊敬。絶大な権威の確立したノーベル賞は、もはやノーベルの思惑をこえ、ローカルな一国で取りしきるには手に余る巨大な存在になったということではないだろうか?
 件の平和賞だが、「憲法9条」を保持してきた日本国民が、昨年につづき賞の候補として正式に受理されていたという。いっぽう「積極的平和主義」を提唱する日本の首相が、いつか平和賞の候補として浮上することはありえない話だろうか? どちらの可能性も否定できないのが現在のノーベル平和賞である。

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