作品の閲覧

エッセイ・コラム

大久保利通の時代感覚

大平 忠

 朝のNHK連続テレビドラマ『あさが来た』が面白い。主人公の「あさ」の元気さにつられてこっちも元気になる。最近は、幕末から明治維新にかけての世の移り変わりの激しさが、主題になっている。
 例えば、あさの嫁ぎ先の両替商のお舅が、「かつおは泳いでいないとだめ」という言葉になるほどと頷く場面や、京都のあさの実家の父親が、「あきないは、先を見る目とその道を歩む覚悟が必要」と娘婿を諭す場面があったりする。
 もっぱら映像は商人の世界の有為転変が多いが、その中で次のような場面が出て来たのでおやと注目した。大久保一蔵(後の利通)と五代才助(後の友厚)が対話をしている。一蔵が才助に向かって「もう、薩摩の藩士ではなく日本人として動かねばならない時代が来た」という科白を吐く。この時代にこれだけの科白を吐ける人間は、恐らく日本中探しても数える程しかいなかったのではないだろうか。旧幕府の勝海舟、薩摩では西郷隆盛、長州では木戸孝允、伊藤博文などは同じ感覚だったであろう。明治新政府は、出身藩、身分に拘らず能力重視で幕臣からもどんどん採用した。
 しかし、藩の桎梏は根強く残り、西郷は新時代に不満の薩摩私学党の士族達と心中する。木戸は、秩禄公債等の士族への見切りが早すぎると新政府を辞めてしまう。先を見通し、過去の我が身を血を出しながらも切り捨てて進んだのは結局大久保利通であった。明治の三傑といえども時代の流れを読み行動するのは容易ではなかった。
 明治新政府は発足以来、士族、商人、百姓などの怨嗟の的であった。大久保利通はその代表であったといってよい。数年前でも小学6年生を対象とした歴史上の人物の投票では、大久保利通は知名度最下位である。人気がない。
 昨今、世論調査をやたらに行い、内閣の支持率その他を大きく発表しているが、民主主義とは何かを考えさせられる。チャーチルは「民主主義はろくでもない制度である。しかし、これに勝るものはない」と言った。E・M・フォースターは「民主主義に対してバンザイを二唱する。三唱はしない」と書いた。
 場合によっては、時代の先取りは世の怨嗟の的となることもあり得るという覚悟が政治家には必要であろう。

(平成27年10月26日)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧