作品の閲覧

エッセイ・コラム

空の思想 1.なぜ、空の思想が生まれたか

斉藤 征雄

空の思想は、大乗仏教の根幹をなす思想である。

 バラモン教では、アートマン(自我、霊魂)は肉体が滅んでも不死であり、不変の実在として位置づけられる。それに対してブッダは、すべての存在は無常であり、自我にも恒常不変の実体はない、つまり諸法無我であることを明らかにした。その後の部派仏教も無我を引き継いだが、それを証明するために説一切有部は存在の究極の構成単位であるダルマ(法)は実有つまり不変の実体を有する存在とした。
 大乗仏教は有部の考えが仏教的考え方に反していると批判した。そしてその対立軸として空の思想を生みだした。大乗仏教は有部の考え方を「我空法有」とし、自らの立場を「我空法空」つまり自我も空、それを構成する要素も空であるとしたのである。

 空の思想は、部派仏教とりわけ説一切有部のアビダルマに対抗するために生まれたのは間違いないが、それを別の視点からとらえれば次のようにも考えられる。
 部派仏教は出家主義であり結果的に在家信者を悟りの世界から締め出すことになったが、大乗仏教は在家信者にも悟りの道を開くものであった。大乗仏教は在家信者が深くかかわった仏教革新運動であるから、在家主義であることは当然なのである。
 そのために大乗仏教は菩薩という概念を創り出して、悟りを求める者は在家であろうと誰でも菩薩になれるとして在家者を救う実践の教理を確立した。
 しかし、出家者のような厳しい修行をしない在家の者が何故悟ることができるのか。それを説明できるような、かつ部派仏教をも納得させる、思想としての体系を必要とした。
 そこで説かれるのが、聖なるものと俗なるものに区別がないということである。部派仏教では、世俗的なものを捨て去り、世俗世界から抜け出すことによって悟りの世界に入って行くという基本パターンがあるが、大乗仏教では聖なるものと俗なるものに区別はなく不二(一体)であるという。聖であるとか俗であるというのは人間のとらわれ、執着に他ならない。したがって、俗なるものに執着しないことはもちろんのこと、むしろ聖なるといわれるものにも執着しないことが強調されるのである。
 こうして聖俗一体の価値観を導入することによって、在家信者の日常生活の中にこそ悟りの世界がある、という考えが導き出される。
 その根幹にあるのが、空の思想である。

(仏教学習ノート23)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧