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エッセイ・コラム

空の思想 3.空は無ではない

斉藤 征雄

 われわれが、存在すると考えるこの世の一切の現象は夢、幻のようなもの、そのような実体のない状態を空と呼ぶ。
 空は無ではない。無は存在そのものを否定するが、空は存在を否定するのではなく「あると思われる何かが欠けている状態」をいうとされる。何かが欠けているから夢、幻のように見えるのである。
 何が欠けているのか。それは、他のものに依存することがない恒常不変の固定的な実体つまり本性(自性ともいう)を持っていないという意味である。一切のものは、直接間接の条件が関係し合って生成、変化、消滅する運命にある。したがって永久に存在し続けることはありえず、存在はいずれは消滅する仮の姿でしかない。そういう状態を空というのである。

 人間について考えてみよう。
 人間存在は諸行無常でありいずれは死を免れないということは、人間の存在が空であるということと同義と考えてよい。また、人間は肉体だけの存在ではないから精神的な面ではどうであろうか。諸法無我は、恒常不変の実体をもつ自我や霊魂を否定するものであるから、これも空と同義といえる。自我が空であれば、欲求を求める渇愛の心、つまり煩悩をはじめとする心のはたらきも空なのでる。
 このように人間は、肉体すなわち物質的現象においても精神的現象においても構成するすべての要素が実体をもたない、空である。

 煩悩が空であればそこからの離脱は意味をなさない。なぜなら固定的な実体をもたないから変化が可能である。すなわち煩悩の世界にいながらそれを断ずることもできるのである。つまり煩悩の世界と涅槃の世界の区別、つまり俗なるものと聖なるものとの区別がなくなる。そういう意味で空の哲学は、区別にとらわれない無執着の哲学ともいえる。

 空は瞑想を行う修行によって観ずるという。それを観ずることを智慧の完成(般若波羅蜜多)という。智慧の完成によって最高の真実に到達した者は無上正等覚といわれる悟りの境地、つまり涅槃寂静に入るのである。

(仏教学習ノート25)

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