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エッセイ・コラム

代官山の夜はふけて

木村 敏美

 主人と私は息子の住んでいる埼玉県ふじみ野市から渋谷に出て、代官山で下車。駅近くのビル三階にあるレストランで、娘と待ち合わせしている。寿司とイタリアンの店の奥にバーがあり、そこを予約していた。このバーでは毎週土曜日の夜、ジャズの生演奏があり、そこで歌う彼に会う事になっている。演奏は八時二十分から。

 彼との出会いは三年前の冬、夫婦で長崎のハウステンボスに行った時だった。丁度光の祭典と野外での音楽祭が開かれ、小さな舞台が幾つもあった。クラッシックからジャズ、ラテン等いろいろあったが、ふと立ち寄った舞台の歌声に強く惹かれた。
 ジャズを歌う細身で長身の歌手の声はナットキングコールを思わせ、少し哀愁を帯びている。英語で意味はよくわからないが、どの曲も心に響いた。名前はグレンさん、サックス奏者でもあるアメリカ人。CDを買い、いっしょに写真を撮ると欲しいと言うので、拙い英文を添えメールで送った。すると「わたしのCDかいましたほんとにありがとう こんどあうをたのしみです ひらがなかたかなだいじょうぶ かんじよめないです」と返事がきた。芸能人とは縁のなかった私達にとって、ちょっとした事件だった。CDは世界中に知られている「明日に架ける橋」や「いとしのエリー」等日本の曲もカバーされていた。彼の作曲した曲も入っている。英語だから飽きがこないのか、車の中でほんとによく聴いた。

 その彼から昨年突然メールがきた。四月に名古屋でライブを開くこと、銀座と代官山のバーで週一回ずつ夜に出演していると。
 今年一月末、息子の家に行った時、急に思い立って彼に連絡すると、代官山でやっているという。世田谷に住んでいる娘も行くことになった。生演奏のあるバーに行くのは初めてで少し緊張したが、中は意外に気さくな感じだ。暫くして娘も来た。窓の外には小さな池が作られ、篝火が水面にゆれて美しい。
 ピアノの伴奏で彼の歌が始まった。嬉しいことに私達の一番好きな曲だ。歌の後にサックスも吹いた。歌声の素晴らしさに音楽を学んだ娘も驚いている。休憩になって私達の席に来てくれたが、彼は英語で、私達は日本語、会話はチグハグ。
 娘が、彼は私達の為に今日の曲目を変更したと言っていると教えてくれた。彼があまりに目を見て話すのでドキドキしたと言う娘。確かに歌の話をした時の嬉しそうな目は忘れられない。気持ちは充分伝わった感じだ。
 しかしその後、彼が、この店の仕事は今日が最後だと言っていることがわかり、私達は絶句した。何というタイミングだろう! 明後日には福岡に帰る。今日を逃していたら、彼に会うのはいつになるかわからなかった。三人で思わず「ラッキー」と叫んだ。

 再び歌が始まる。曲の合間の彼の話の中に、キムラファミリーと言っているのが何度か聞こえた。演奏が終わると、代官山の夜はすっかりふけて、帰る時間が迫っていた。エレベーター迄見送りに来てくれた彼に、この次は銀座でと言って別れた。

 コマーシャルソングも手がけ、活躍の場はあるようだが、今の日本で生き残っていけるのだろうか。何とか終電車に間に合い、複雑な思いでふじみ野に帰り着いたのは次の日になっていた。朝、彼からローマ字で書いた日本語のお礼のメールがきた。
 Glenn.M.Ray 彼の歌声とサックスが、東京の何処かで聴ける日が続くことを願って、翌日帰路についた。

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