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エッセイ・コラム

新聞の明日

金京 法一

 朝、寝床から出て、最初にやる仕事の一つは郵便受けに新聞を取りに行くことだ。最近はチラシ広告も多い。時には新聞より多いチラシ広告が入っていることがある。スーパーの安売りに興味がない限り、チラシ広告は無用のごみである。

 チラシ広告を処分して、本体の新聞を食卓の上に置く。一面の見出しをざっと見るが、全然新鮮味のない日が多い。どの記事も見たことがある。それもそのはずで、昨夜のテレビやインターネットで知っていることばかりである。新聞報道はちっとも新しくないのである。

 かつて新聞はラジオとともに個人と世界をつなぐ重要なツールであった。テレビもなく、インターネットもなかった時代では、新聞が最も有用な情報獲得の手段であった。朝刊夕刊を問わず、郵便受けに新聞を取りに行くときは、小さなときめきのようなものを感じたものである。今はそれがない。何か新しいものはないかと期待をして、郵便受けから新聞を取りだすが、期待を裏切られることが多い。

 かつての情報のチャンピオン新聞は今やテレビやインターネット、あるいはスマホにその地位を奪われているのだ。新聞社の持っている取材能力や発信能力はあまり生かされていない。この現象は世界中で起こっているのだ。新聞の発行部数は減りつつあるようだ。知っている人で新聞の購買をやめたのも何人かいる。

 新聞が全く無用の長物だというわけではなかろう。事件や事象の細かい解説や論評はそれなりに有用である。少々時間をかけてこういうものを読んでいれば、イスラム国に観戦に行こうなどという脳天気な御仁は現れないであろう。ただ最近は迫力のある論説が少ないような気がするが。

 新聞の明日はどうなるのであろうか。発行部数がさらに減り、大手新聞社の合併や廃業が現実の問題になりつつあるような気がしてならない。

2016年3月25日

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