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エッセイ・コラム

温故知価

富岡 喜久雄

 ホームページで著者名による作品検索ができるようになった。 そこで己の作品を覗いてみたら、「残古用旧」のタイトルで何か書いている。次に「タイトルの効用」なる一文で人目を惹くタイトルの重要性を訴えてもいた。 にも、拘らず今回も「温故知価」なる四文字熟語のパクリを使った。想像に難くはないと思うのだが「故きを温ねて、その価値を知る」と読ませたい。「残古用旧」同様、そう言いたくなる事態に遭遇したからだ。
 某社が価格三五万円もするアナログ蓄音機を売り出したが、あっと言う間に完売してしまい増産を考えたいと言う。その価格には驚いたが、この現象の真因は単に音楽マニアの嗜好だけでもない何かがあると思えてきた。 今や無人機が爆撃し、ロボットが接客する時代とは言え、便利さと無人化を求めた技術が、人の「判断機能を劣化させないか」と心配になってくる。 現にロシアの旅客機が、自動操縦装置の誤作動と人的操作ミスで墜落したとも報じられてもいるし、自己機材の更新でもそれを感じたからである。
 これは単に老人の「ついて行けない症候群」の所為ばかりとは言えなかろう。

 まずはPC。W7までは更新の意味を感じたが、以降は余計な機能が多く便利さより使い難さが先立って、単なる買替促進策でしかないと思えた。殊にW10は「貴殿のPCは適合、直ちに装着を」とあまりにも煩く催促するので入れてはみたが、画面が切れたり、勝手に他画面に移行したり、さらには完全停止しもした。 技術的には理由があるようだが、友人に聞いてみても、新品にプレインストールしたものでないとマッチしないという。もちろん、即外したが、丁寧にも具合悪い場合の外し方まで指示がついていた。
 携帯電話を換えようとしたら、スマホを勧められた。 でも不要な機能が多く、維持費も高いので、ガラ携をと言うと今や学童用しかないと言う。
 さらに車である。二十年目の「車検」を翌年に控えた我が愛車が突然店先でエンジン停止し、修理はしたものの同居人が不安がるので止む無く買い換えることにした。
 でも、色、仕様、名義は不本意ながら彼女の主張に従った。運転者の余命を考えるべきと言うのである。 結果、装着されたナビは複雑怪奇で使い難く、バックモニターは必ず曲がって駐車させるし、走れば「一時停止があります」「白線を超えました」と囁く。交差点では停止の度にエンジンは止まり、再スタートの不安が心臓を肥大させる。殊に上り坂での停止は恐ろしい。嘗ての力強いエンジン音が消え、無断変速機が低い鳥笛の音とともに急加速する。「なんとも自ら操る実感が湧いてこない」のである。
 ナビで行先を指示すれば勝手に高速道路ばかり乗りたがる。 「俺の流儀は鈍行だ」、「黙って好きにやらせろ」と怒鳴りたくなってくる。 最近、老人の突っ込み事故が多いのは、こうした自動化装置多用のせいだろう。 人の機能も使わなければ劣化する。

 遠出をしたその夜洗面所の鏡に映る自分の顔が、なにやら歪んで宇宙人のように見えてきた。

新しきを以って尊しとせず、
商業資本主義を捨て、里山資本主義を実践しよう。

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