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エッセイ・コラム

亭主のアルバイトは総裁?
——「昭和の居酒屋」続き——

浜田 道雄

 王子の居酒屋は開店してまだ二十分だというのに、もう酔客たちでいっぱいだ。
 回りはじめた快い酔いと仲間たちとの楽しい会話で、客たちは大いに盛り上がり、その笑いと話し声とが天井にこだまして、店のなかはますます賑やかになってきた。

「あの親父はなにしてる?」と見まわすと、レジ横の燗場にデンと頑張っていた。亭主はここの燗奉行らしい。客が遠くから「熱燗一本!」と怒鳴ると、やおら酒の燗付けをはじめ、燗がつくとチョコチョコっと歩いて、テーブルに運んでいる。結構腰の軽い、年に似合わない軽快な動きをする。
 ほとんど口をきく様子はない。でも、「開店前のあの無愛想な面(つら)はどこに行っちまったんだ?」と聞きたいくらい、穏やかな顔をしている。客たちの賑やかなおしゃべりと笑いに心が和み、燗付けをして客をもてなすのを楽しんでいるんだ。あの亭主は商売抜きに燗番が好きらしい。

 私たちのところにも酒を運んできた。愛想笑いこそしないが、サービスのつもりなのか、お愛想なのか、コップにチョコッと酒を注いでいく。そんな亭主の仕草がなかなか優しく、うれしい。
 この亭主、さっきは小うるさい無愛想な奴だと思ったが、ホントはいい人らしい。そう思って見ると、結構いい男だ。酔いが回るにつれて、私の亭主に対する評価もだんだん上がってくる。

 と、息子が声をかけてきた。
「父さん、あの親父をどこかで見たことあると思わない? ほら、あの景気判断とか金利を下げるとかってときに、いつもテレビに出てくる人さ。あの親父、本当は呉服橋の総裁なんだよ」
「ん? そんなの酔っ払いの戯言だろ?」と思いながら、改めてテーブルの間を動き回り、酒を運んでいる亭主を眼で追った。
 確かに白髪の髪の刈り方や顔付きなんか、あのテレビの総裁によく似ている。こっちの方がちょっと細めかなと思うけど、燗場の前に陣取ってクソ真面目な顔で店を見渡しているところなんか、まさしくテレビ会見のときのあの総裁の雰囲気がある。

 私は彼の経済政策や金融政策には一言も二言も言いたいことがあるから、あの総裁の面(つら)には好感をもっていない。一方で、ここの亭主に対する私の評価はさっきからずいぶん上がっている。そんなこともあって、さらに酔眼で見るからだろうか、どこから見ても亭主の方がズーッと親しみやすい、いい顔だ。総裁のはずがない。

 私は息子に言い返した。
「いや、あの親父、総裁みたいなギトギトした悪党ヅラじゃないよ。こっちの方がズーッと品がいい。あんな奴に似てるなんていっちゃ、可哀想だ」
「父さんね〜 あの総裁はね、ここで亭主として酒の燗をしている方が好きなんだ。ここで客が酒を楽しみ、酔っ払っているのを見てるのが嬉しいんだ。だから、ここではいい顔になるんだよ。
 でも、アルバイトでやってる方は、本当は好きじゃないし、あの政策だってきっとうんざりしながらやってるんだ。それで、あっちにいると顔つきも悪くなるのさ」

 燗場の前で店を睥睨している亭主を横目に見ながらこんなバカ話を続けていると、いつの間にか酒が進み、酔いも回って、ここでバカになっている時間がどんどん楽しくなる。そして、居酒屋という非日常の世界が醸し出す妖しい雰囲気が息子と私を包み込んでしまったようだ。
 ついに、私もここの亭主があの総裁であってもおかしくないと思うようになってきた。

「ふーん、そうか! あの親父、あんなけったいなアルバイトをしてるのか! 可哀想にね〜! よーし!もう一本熱燗をつけてもらって、総裁に酌をしてもらおうよ!」

 店は相変わらず賑やかで、酒の酔いとバカ話を楽しむ客たちの活気に満ちている。そして、それらが醸し出す暖かで人を和ませる空間が部屋いっぱいに広がり、心地よい時間が緩やかに過ぎていく。
 昭和は遠くなったが、ここではまだその昭和の時間が流れている。

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