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エッセイ・コラム

空の思想 6.龍樹(ナーガールジュナ)(3)空と言葉

斉藤 征雄

 この世のすべてが空であることを観ずることが般若の智慧=悟りであるが、それは瞑想から得られる直観知だといわれる。修行者が空を観ずる深い瞑想に入って見る世界では、思惟や知覚が消え失せて最高の真実=空が顕れるという。空になり切って見える世界は諸法実相といわれる。

 龍樹は、空になり切った世界を「あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく」といった。夢、幻とは、それを言葉によって表現することはできないという意味である。なぜならば言葉には、有と無、生と滅など区別や対立した世界をあらわす言葉はあるが、「すべてのものはあるのでもなく、そうかといってないのでもない」という空の意味をあらわす適切な言葉が見当たらないからである。空はそうした状態を仮に空という言葉を当てはめただけで、空という何ものかが“ある”のではない。
 彼は、言葉を「戯論(本質を突いていないもの)」といい、また言葉がそれに一致する対象を実在の世界に持っているのではないという意味で「言葉の虚構」とも表現した。
 われわれは、言葉によって物事の実体を理解認識しているように考えるが、真実は言葉を離れた直観によってのみ感得されるということである。

 しかし一方で、龍樹は言葉そのものがもつ意味を否定してはいない。言葉は、情報手段のツールとして人間生活になくてはならないものであり、たとえば言葉が虚構であるという説明をするにも言葉が必要である。
 そのため「中論」は、次のように二つの真理(二諦)があるという。
 ・世間一般の理解(常識の世界)としての真理(世俗諦)
 ・最高の真実(空を知る)としての真理(勝義諦または第一義諦)
 あくまで目指すのは最高の真理であり、その境地は言葉を超えたところにあるが、現実には最高の真理を説くためには言語習慣を無視することはできない。したがって、極限のところまでは言葉に頼り、これ以上頼れなくなったとき言葉を捨てるという意味である。
 世俗諦は在家者のため、勝義諦は出家者のためという解釈もあるが、すべてが最後は言葉を超えた最高の真理をめざすと考えるのが正しい解釈と思う。

 龍樹の思想は後に中観派と呼ばれ、瑜伽行派(唯識派)と並びインド大乗仏教の二大潮流になる。

(仏教学習ノート28)

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