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エッセイ・コラム

猫バカと言われて

富岡 喜久雄

 最近、猫の人気が高いようだ。 未だ行ったことはないが街には「猫カフェ」も現れた。 書店には猫本が各種山積みされ、テレビは世界各地の猫の様子を流してくれる。 それを録画して何度も観ているから同居人は私を「親馬鹿」ならぬ「猫バカ」と呼ぶ。 人は「犬好き」と「猫好き」に分かれるようだが、従来は犬好きの方が多かったのではないか。 どちらかと問われれば、私は猫の方が好きだ。 家庭で娘が柴犬を飼っていたし、単身赴任時代には自分で猫を飼っていたからどちらの生態も承知の上での結論である。 猫は「自己中心型」だが、あの自由奔放さが好い。 人に媚びを売らない、阿らない独立自尊の気概が好い。 さらに自身の終末を感知すると何処へともなく消え、亡骸を曝さない潔さが好い。 老年の身は範としなければならないではないか。 それを「猫嫌い」に言わせると、餌をやっても馴つかないし呼んでも来ない。 疑わしそうな目で警戒しながら遠目で眺めて近寄らないのが嫌らしい。
 それにひきかえ、犬は主人に忠実、呼べばいつでも尻尾を振って寄ってくる。 猫は気に入らなければ知らん顔、自分の都合だけで膝に乗り、勝手に出てゆき昼寝ばかりの役立たずだと言う。 なに、役立たずとは聞き捨てならぬ、ネズミ退治にヤモリに蛇も追い払い、無聊を慰めんと、はしゃぎまわって追いかけっこまでやってくれるぞと、犬猫論争はきりがない。 だがドッグ・ファイトにはならず、猫型の睨み合いが続くことになる。 犬猫の好き嫌いは、飼い主の血液型、性格、行動パターンと相関していると言われる。 「吾輩は猫」ではないが、血液型はB、スポーツはグループ競技より単独プレイの水泳部員だったし、組織内ではゴマも擦れず、リンゴも磨けない唯我独尊タイプだったから他人が好まぬ任地を任されもしたが、反って干渉が少ない自由を楽しんだので正しく猫型だったのだろう。

 東南アジアの某国でのこと、大邸宅での独居の慰みにと何かペットをと思い、ガードマンに子猫を頼んだら白黒縞の子猫を持ってきてくれた。 朝、昼は通いのメイドが食事を用意するが、夜は大学工学部での夜間授業に出かけるので私の帰宅時は広い家に独りだった。 薄暗い居間の電気をつけると何処からともなく子猫が現れ、ニャンと泣きながら足下にまとわりつく。 先方は単に腹が減ったと訴えていただけだろうが、何とも救われた気分がしたものだ。 子猫はたちまち成長し、ガードマンならぬガード・キャットとしても、ネズミはもとより、南国に多いヤモリを追い払い、危険な毒蛇グリーン・スネイクが天井裏に入り込んだときは心強い頼りになった。
 また、この猫は下の始末をトイレに乗って自分でするという特技を持っていた。 誰も信じないが本当の話である。 よほどメイドが厳しくしつけたのかと不憫に思えて愛しさが増したものだ。 想うに、猫は犬に比べあまりプラス評価がなかったと思うのだが、昨今の猫ブームの原因はなぜだろうかと考えていたら、関係する企業の若者との懇談の中でヒントを見つけたような気がした。 彼らは職場のリーダーで、部下の若者が猫的だと言うのである。 即ち、好きなときに、好きなことを好きなだけやる働き方をしたがり、叱るとプイと辞めてゆくと言う。 それだけ社会が爛熟し、豊かになって人間の自由度が増したのだと言えるかもしれない。 好きな時に、好きなことを、好きなだけやって暮らせる時代が来たからだろう。 嘗ては、猫好きと雖も「刻苦勉励、我慢辛坊」せざるを得なかった時代は遠くなったようだ。 これで世界平和が実現すれば言うことないから、猫は豊かさの指標かもしれないと思えてきた。

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