進水式
瀬戸内に面した小さな町。夕暮れ時、ある一角だけが華やいだ雰囲気に包まれていた。着飾ったアメリカ人のカップルが何組も明るい照明の下に集っている。大勢の日本人の姿もあった。恰幅の良い男たちに和服姿の夫人が寄り添っている。
ここは造船の町、相生である。今からもう五十年以上もまえ、日本の造船業が栄え、世界をリードし始めたころの話である。
アメリカの大手石油会社が注文したタンカーの進水式が先ほど終わり、祝賀パーティーがこれから始まろうとしているのだ。
今日では、大型の船はドックの中で建造され、ある程度出来上がると注水して浮かべ、ドックの外に引っ張り出すのが一般的である。しかし、その当時は傾斜した船台と呼ばれる台の上で造り、その台から滑り下ろして海に浮かべていた。
船に命名し、進水させるのは通常女性の役目である。この日も注文主の社長夫人がこの大役を務めた。斧で支綱を切断すると、巨大な鉄の塊は音もなく動き出す。同時に船の舳先に取り付けられた薬玉が割れて、五色の紙吹雪やテープとともに鳩が飛び立つ。
やがて、大きな船体は水しぶきを上げて海に浮かぶ。招待されていた小学生の一団が、日の丸と星条旗の小旗を振って進水式を盛りあげる。
そのような興奮からまだ冷めやらぬ一行が、造船所内設けられたパーティー会場に移ってきたのだ。
この日の進水式には、大切な顧客の社長以下重役たちが奥さん同伴で、はるばるアメリカからやってくる。造船会社のほうも、それに合わせて「お偉いさん」が出なければならないと判断して、会長、社長を始め関係する重役たちが、皆夫人同伴で東京から参加していた。
海外からのお客さん一行の接待役と、社の重役とその夫人たちと共に、相生までお連れするという大役を、入社してまだ一年の新入社員が仰せつかっていたのである。
会場に設えられた舞台にスポットライトが当てられ、これから余興が始まるとのアナウンスが流れる。
片田舎の造船の町で、アメリカのお金持ちに満足してもらえる余興を準備するのは容易なことではない。相手は日本語が解らない外国人だ。少々お金は掛かるが、どこか専門の所にまとめて依頼するしかない。関西支社に頼んで相生まで来てもらえる芸能人を手配してもらった。言葉の壁がない出し物として選ばれたのは歌と奇術だった。
舞台に先ず登場したのは「スリー・グレイセス」である。当時、NHKの紅白歌合戦にも出場する人気の女性三人のコーラス・グループである。曲の一つにスキャットで歌うグレンミラー楽団の演奏で流行っていた「In the Mood」を加えてもらった。まさか日本の地方にまで来て、お馴染みの歌が聴けるとはと客は大喜び、大喝采である。
次に登場したのは奇術師の「引田天功」だ。現在活躍している二代目の女性マジシャンではない。初代の天功である。お定まりの黒のフロックコート姿で登場。掌の中から鳩を出すという古典的な手品である。会場にいる全員が舞台上の男の動きに目を凝らしている。
その舞台を眺めながら、ここまでに至る様々なことを思い起こしていた。
今回のイベントで一番気を使ったのは、東京から相生への移動である。大勢のVIPをいかに無事に造船所にお連れして東京まで帰っていただくかである。今日ならば、東京から相生まで新幹線で移動できるが、東海道新幹線もまだ工事中だった。
色々と考えたあげく、東京から大阪まで飛行機で行き大阪で一泊したのち、国鉄で姫路まで移動。姫路に宿をとり姫路と相生間はタクシーを連ねて往復することにした。本来ならば京都に泊まって、古都を見てもらいたかったが、残念ながらこれはあきらめた。
第一泊目の夕食は、大阪の老舗料亭、Tでとることとした。何日か前に下見に行き料理も決めてあった。畳敷きの広い宴会場で、外国人一行になれない座布団に座ってもらうのが気がかりであったが、日本的な雰囲気を喜んでくれたようでホッと胸をなでおろした。
大勢の客をはるばるアメリカから招いて、進水式をすることが決まった時点で、一連の行事を記録映画に収めることになった。客先から要望があったためであるが、社としても何か記録に残したいと考えたのである。
映画の製作を依頼した会社のスタッフと共に、ロケハンのため同じコースを事前に巡る。こちらは映画作りもさることながら、一行を引き連れて移動する時にどこでどんな問題がありそうかに、もっぱら頭が向いていた。
数か月後に完成した映画の上映会を開催した。アメリカから主賓が再度日本に来ることは無かったが、東京に駐在している関係者を招待して、Tホテルで行われた。スクリーンには、薬玉が割れて大きな船体が滑り出す様子や、「In the Mood」の音楽と共にスリー・グレイセスが舞台で歌う姿が映し出され、観客はあの時の想い出に浸った。
進水式のあと、数多く撮られた写真を整理してアルバムを作るのも営業の役割だ。何冊も仕上げるにはかなりの時間を要する。これが本来の営業の仕事かと疑問と不満を抱きつつデスクに向かい作業を続けた。
そんなある日、秘書室から電話がかかってきた。お小言でもいただくのかと恐る恐る行くと、白い封筒に入った一通の手紙を手渡された。肉筆で書かれた宛先は社長となっている。差出人はと裏を返すと、先日来日した主賓の奥さんだ。何かクレームでもと読んでみると、進水式で来日した際、貴社のNという社員が大変尽くしてくれ、お蔭で楽しい日本訪問になったと綴られていた。
その頃、日本の企業は、外貨獲得のため輸出することが国策として奨励されており、貢献した会社は「輸出貢献企業」として表彰された。社の入り口にもそれを顕彰するエンブレムが誇らしげに掲げられていた。正に全社一丸となって輸出を懸命にのばそうとしていたのである。
嫌われる文章の典型である自慢話になってしまったが、敢えて書き記した。往事の日本の造船業の様子と、若い社員がどのように仕事をしていたか、その一端だけでも後に伝えたいと思ったからである。