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エッセイ・コラム

銀座八丁目の「リリー・マルレーン」

大平 忠

 先日の夜中、目が覚めて寝付けず、ラジオのスイッチを押すと、「リリー・マルレーン」の歌が流れてきた。マレーネ・ディートリッヒのドイツ語版だった。この曲は、感傷を帯びた響きに加え、曲を巡るエピソードが色を添え、胸に沁みてくる。第二次世界大戦時、ベオグラードドイツ放送局から流れるララ・アンデルセンの歌声を聴こうと、21時57分、戦場の兵士たちは敵味方を問わずラジオのスイッチを入れたという。
 マレーネ・ディートリッヒは、ドイツ人ながら連合軍慰問のため前線を廻って、この歌を歌ったとか。英語で歌ったのであろう。彼女はヒットラーを憎み、祖国を愛しつつもドイツに帰らなかった。そのため戦後になってもドイツ人から長く拒まれ続けた。彼女がドイツ語で「リリー・マルレーン」を歌う時、「私はドイツ人なの」との心情がにじみ出ているかのようだ。

 話変わって、かつて銀座八丁目・裏通りのバーに、「リリー・マルレーン」しか歌わないというママがいた。彼女は筑豊・遠賀川のほとりで育ち、万葉集を読みエッセイも書くという女性だった。川筋気質でピリッとしていた。ママは以前銀座の一流クラブでラテン専門の歌手だったという。ところが、この店で歌うのは「リリー・マルレーン」一曲だけ。それも滅多に歌わなかった。低音で声に艶があるところは、マレーネ・ディートリッヒに似ていた。
 そのママが一回だけ他の歌を歌ったことがある。某月某日、スペインのユーザーが来日するので接待をすることになった。住いが城という大金持ちである。当方は遺憾ながら接待費不足だ。苦肉の策、神田の横丁の焼き鳥屋とこの銀座八丁目のバーにしようと決めた。ママに訳を言って頼んた。いざ当日当夜、城持ちの主はまず焼き鳥に舌鼓を打って庶民の味を大いに喜んでくれた。次は銀座八丁目である。店に他の客は幸いいなかった。ママも横にやってきて片言の英語・スペイン語で相手をしてくれた。しばらくすると、つとマイクを握るやラテンの名曲を歌い出した。「リリー・マルレーン」ではない。びっくりした。素晴らしくうまい。城持ちは口をあんぐり開けてこちら以上に驚いている。歌い終わるや、ブラボーと叫び早口のスペイン語で何やらまくし立てた。ママはアンコールにも応えてくれた。接待大成功の夜だった。店に他のお客がいなかったのもママの配慮だったと後になって気がついた。その後このようなことは二度となく、ママは相変わらず「リリー・マルレーン」をたまに歌うだけだった。
 数年して私は勤め先が変わり銀座八丁目から足が遠のいた。間もなくママが病に倒れ店仕舞いをしたと聞いた。見舞いの手紙を書いたが程なくして訃報が入った。
 その後10数年経ち、「リリー・マルレーン」を聴くこともなかったが、マレーネ・ディートリッヒの歌声を深夜に聴いて思い出が蘇った。銀座八丁目のママは天国でも「リリー・マルレーン」を歌っているのだろうか。また、時にはラテンの歌を思い切り歌うこともあるのだろうか。

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