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エッセイ・コラム

維摩経(ゆいまきょう)の世界

斉藤 征雄

 維摩経は、空の思想をベースに在家主義を説く大乗経典である。
 部派仏教においては、出家者は世俗的なものを捨て去ることによって悟りの世界へはいることを目指した。それに対して大乗仏教は、世俗世界も悟りの世界も本質においては空であるので区別はないと考える。俗なる世界、すなわちわれわれの現実の日常生活の中にこそ、悟りの世界つまり聖なる世界があると考えるのである。
 こうした対立した概念を一体(不二)ととらえることを、不二の法門に入るという。

 維摩経の主人公である維摩居士は、本当は既に悟りに達した仏であるが衆生を救うために在俗の人(菩薩)となってこの世に現れた。彼は方便によって病気ということにした。そのため多くの人々が見舞いにやってきた。維摩は彼らに広く仏法を説いたのである。
 ブッダは自分の弟子たちに維摩を見舞うよう告げたが、全員が辞退した。なぜなら維摩はものの本質を完全に理解していて、誰もがその理法にやり込められていたのである。
 こうした中で文殊菩薩だけが見舞いを引き受け維摩のところに赴く。そして二人の問答を聞こうとして数多くの弟子たちもそれについて行くのだった。
 これが維摩経の舞台設定であり、維摩居士と文殊菩薩をはじめとする弟子たちの対話を通して、聖俗一体の価値観や空の思想を戯曲的手法で説いていくのである。
 維摩経を代表する二つのエピソードを挙げる。
【天女と舎利弗】
 一人の天女(実は菩薩の化身)がそこにいる人たちの頭上に神々しい散華を振りかけた。部派仏教の代表とみなされた舎利弗は、出家者に俗なる華はふさわしくないと思いそれを振り払おうとしたがどうしても落ちない。そこで天女がいう。「華に俗なるものという本性があるのではない、あなたが自分で聖と俗を区別してこだわっているだけなのです。煩悩というものも、煩悩の本性があるわけではなく、それにこだわり執着する心が間違いなのです。執着しなければ、煩悩の束縛から解放されるのです」
【維摩の一黙】
 維摩が「不二の法門に入ることとはどういうことか」と聞いた。人びとは、たとえば生と滅、善と悪、など対立するものは実際にはあり得なく一体だと主張、最後に文殊が「何ら言葉も使わず、無言、無説、あらゆる問答もしない」と答えて、「あなたはどう考える」と聞くと維摩は「・・・」無言をもってこれに応じた。不二の法門に入るとは、言葉では表現できないことを誰もが理解した。

(仏教学習ノート29)

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