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エッセイ・コラム

辞書を楽しむ

浜田 道雄

 ひとり無人島に住んで、本は1冊しかもてないなら、もって行くのは辞書だといったのは、向田邦子さんではなかったか。
 私も同じ考えだ。いい辞書は驚くほどたくさんの情報をもっているし、また面白い読み物でもある。無人島での無聊の時間を過ごすには最適ではなかろうか。

 では、どんな辞書をもって行ったらいいだろう? いまの私なら、手元にあるLongmanのAdvanced American Dictionaryでいい。手軽で、重くもない。さし絵もたくさん入っているし、言葉の意味の解説だけでなく、その背景、使い方までていねいに説明しているから、読んでいて面白い。

 例として、「work」を引いてみよう。動詞として使うときの意味が全部で31項目。それぞれに「do a job that you are paid for」、「try to achieve something」などといった簡略なタイトルがついていて、その説明と用例があとに続く。
 さらに「work」を使った熟語とその使い方が用例を含めて15 項目あまり、名詞として使うときの意味と用例も20項目以上あって、A5版の辞書のほぼ3ページを占めている。

 これを丹念に読んでいたら、あっという間に1、2時間は過ぎてしまうだろう。そして、英語が母語でない私でも「work」という言葉のもつ意味とニュアンスをかなりつかめるし、用例の一つひとつを読みながら、この言葉を使う人々の頭の構造はどんなになっているのかなどと考えると、彼らの考え方や日常の生活までも垣間見えてくるようだ。
 辞書は言葉を調べるだけのものではなく、民俗学のガイドブックにもなるのだ。

 ちょっと視点を変えて、「conservative」を覗いてみよう。いくつかある説明のうち、政治的な意味を拾ってみると「supporting political ideas that include less involvement by the government in business and people's lives, for example encouraging everyone to work and earn their own money, and having strong ideas about moral behavior」とあって、さらに「Compare:LIBERAL」と指示する。
 では「liberal」は? 同じように政治的な意味には「supporting political ideas that include more involvement by the government in business and in people's lives, and willing to respect the different behaviors of other people in their private lives」といって、やはり 「Compare:CONSERVATIVE」という。
 辞書を編集した人の考え方が透けて見えるような説明である。

  ちょっとお茶目なコラムもある。「obey」の説明の挿絵だが、飼い主の「COME HERE!」と呼ぶ声にしっぽを振って近寄ってくる犬の姿があり、「disobey」の説明の挿絵には、同じ飼い主の呼びかけに、背を向けて後ずさりしていく犬の姿が描かれている。眺めているだけで「ニヤッ!」としたくなり、結構無聊が慰められるのではなかろうか。

 しかし残念なことに、日本語の辞書には無人島にもっていくのに適当なものは見当たらない。「広辞苑」などが候補かもしれないが、上にあげた「conservative」に対応する「保守」を引いてみると、「新しいものをきらい、旧態を重んじ、それを保存しようとする」という説明で、「リベラル」は「個人の自由、個性を重んずる」とだけ。
 ひどく簡略で、味も素っ気もない。これでは読むのを楽しむなんて無理で、無人島の無聊を助長するだけだ。
 例外は「字訓」だろう。読みでのある楽しい辞書だが、現代日本語の辞書ではないし、また無人島にもって行くにはちょっと重すぎるのが難点だ。

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