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エッセイ・コラム

トラちゃんのビール

浜田 道雄

 フーテンの寅さんではない。丹沢山麓のわが家に一番はじめに棲みついたオスのトラ猫のことである。

 鶴巻温泉に転居してまもなく、小柄なミケ猫がわが家に姿をみせた。鳴く声が可愛いメス猫で、家内がネコマンマを作ってやると喜んで食べて、それから毎日顔をみせるようになった。
 ある日、この猫が2匹の仔猫を連れてやってきた。1匹はオスのトラ、もう1匹は母親とおなじメスのミケだ。私たちは子猫だとばかり思っていたミケ猫が母親だと知ってびっくりしたが、家内はすぐに3匹分のネコマンマを作って、彼らを歓迎した。
 それから3匹は毎日揃って顔をみせて、家内の与えるものを食べ、ひとしきり庭で遊んでは帰って行ったが、一月ほど経ったころ母猫とミケの妹猫はまったく姿を見せなくなった。そして気がつくと、オスのトラだけが居残ってわが家の一員になった。それがトラちゃんである。

 それから一年たった。トラちゃんは鼻先から尻尾の先までが1.2メートル、体重は8キロというどでかい猫に成長した。だが、仔猫のころからの甘えん坊ぶりは相変わらずで、その巨体で私たちの膝に乗りたがった。小柄な家内の膝では身体全部は乗りきらず、尻と後肢は畳に落ちてしまうのだが、それでもトラちゃんは頭が膝に乗っているだけで満足し、喉を鳴らして喜んでいた。
 私にはというと、私が食事をするとすぐに膝の上に乗ってきて、前肢を私の口元に伸ばし、「ボクにも頂戴!」とせがんだ。

 ある日私がビールを飲んでいると、例によってトラちゃんは私の膝に飛び乗って「飲ませて!」という。
「ほう! お前もビールをやるんかね?」
 私は面白がって、トラちゃんの口に入れてやった。すると、なんと!トラちゃんがビールを飲むではないか! 私は調子に乗って「もう一杯どう?」と、さらにビールを流し込んでやった。
 だが、こんどは違っていた。トラちゃんは首を振り、鋭く唸ってビールを吐き出し、膝から飛び降りた。どうやら、とんでもなく間違ったおねだりをしちゃったと気づいて悔やんでいたらしい。
 そんなトラちゃんを、私たちは大学を出て就職してもまだ甘ったれの気がなおらない長男を引き合いに出しては、「あんたはお兄ちゃんにそっくりだよ」とからかい、可愛がった。

 しばらくして、長男が結婚し、嫁さんと一緒に丹沢山麓の家に来るといってきた日の朝、トラちゃんはフラッと家を出て行って、そのまま姿を消した。
 私たちは「トラちゃんは、自分の甘ったれぶりを兄ちゃんの嫁さんに見られるのが恥ずかしかったのかね?」といいながら、何日も彼の帰りを待った。しかし、トラちゃんはそれっきり帰って来なかった。

 さて、企業OBペンクラブには「なんでも書こう会」という会があり、以上の文章は、先日の例会に提出したものである。そこで「猫たちの関係、とくに何匹の猫がきたのかがわかりにくい」というコメントをいただいたので、猫たちの関係をきちんと書き直すとともに、他の部分にも若干の書き足しをしたものである。

 ところで、その日作品の結末にある「トラちゃんの家出」について、「書こう会」を仕切る世話人は「いずれにしろ、悲しい話ですな」といって“まとめ”としたが、これは筆者が理解するトラちゃんの意図とはちと違う。
 そこで、ここにトラちゃんの名誉のために、筆者の解釈する「トラちゃんはなぜ家出したか」、その真相を付記しておきたい。筆者の考える「トラちゃんの家出」の真相は以下の通りである。

 お兄ちゃんが嫁さんを連れて来る日、トラちゃんは恥ずかしくて逃げたのではない。甘ったれ兄ちゃんが結婚したと知って、トラちゃんは自分の日頃の甘ったれぶりを振り返って恥ずかしく思い、考えたのである。
「お兄ちゃんは独り立ちした。ボクもいつまでもカアさんの膝に頭を乗せて、喜んでばかりではいけない。男として独り立ちしなきゃならない」

 かくて、トラちゃんは旅立ちを決意した。フーテンの寅さんのように、一人前の男になるべく旅に出たのである。彼が旅先でどんなマドンナに会い、恋をし、振られたのかは残念ながらわからない。だが、そのたびに“フーテンのトラちゃん”は男として成長していっただろう。きっと、あの巨体のような貫禄ある猫になったに違いない。そして、立派な男、いや立派なオス猫として、その生涯を終えたのだ。

 だから、彼の出奔は「悲しい話」ではなく、「祝ってやるべきこと」だったのである。私はそう思うのだが、どうだろう?

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