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エッセイ・コラム

安倍頼時が海を渡り胡人の大軍に遭遇した話

浜田 道雄

『今昔物語集』に、陸奥国の蝦夷の豪族安倍頼時が北の国に行って胡人の大軍に遭遇した話がある。

 平安時代の末、安倍頼時は朝廷に反乱した首謀者だと疑われて、陸奥守源頼義に攻められた。「前九年の役」と呼ばれる戦役である。
 史実では、頼時はこの戦いで流れ矢にあたり鳥海柵で戦死しているのだが、今昔物語は、彼は頼義との戦いを避けて北の胡国に移住しようと考え、大船をしつらえて郎党ら50人余りと海を渡ったのだ、と語る。

 頼時一行は無事胡国にたどり着いたが、高い崖が続いていて上陸する場所がない。そこでさらに北へ進んだところ葦原のなかに大きな河があったので、遡ってみた。だがどこまで行っても両岸には広い葦原が続いていて、上陸できるところは見つからず、また人の姿も見なかった。
 それでも一行は河を遡り続けて30日ほどしたある日、突然遠くから大きな音とともに地響きがして、こちらに近づいてきた。
 頼時らは急いで葦原のなかに船を隠して、様子を伺うと、武装した胡人の騎馬兵一千騎余りが遠くから現れ、ワラワラと河を渡って行く。地響きはこの騎馬隊の蹄の音だったのだ。

 頼時らはここがこの大河の渡河点だったかと知ったが、あまりの大軍にすっかり仰天してしまい、また恐ろしくもなって、
「思いもかけない恐ろしい所へ来てしまったようだ。あんな大軍がいては戦もできない。食料のなくならないうちに、国に帰ったほうがいい」
と考え、河を下って陸奥に戻ってきたという。

 今昔物語は、後年源頼義との戦いに敗れ、俘囚となって筑紫に流された頼時の息子安倍貞任がこう語ったと付言している。また、これと同根と思われる話が『宇治拾遺物語』にもある。

 さて、この安倍頼時が大河を遡って出会った「胡人」は、どこの人だったのだろう?
 角川ソフィア文庫版の『今昔物語集』は、頼時一行が遡ったのは石狩川で、アイヌの大部隊が渡河するところを見たのだと注釈している。
 だが、本当にそうだろうか? 石狩川はとても30日も遡れるような大河ではない。また、平安時代にアイヌの人々が一千騎もの騎馬隊を持っていたという話など、聞いたこともない。

 私は、頼時らは蝦夷島(北海道)をさらに北上して間宮海峡に達し、アムール河を遡ったのではないかと思う。だから、この「胡人」は満州やシベリアで遊牧生活をしていた女真、粛慎、靺鞨などと呼ばれた人たちではなかったかと思うのだ。

 わが国と日本海の対岸との交流はかなり昔からあった。7世紀末から10世紀初めまで満州から沿海州あたりを支配していた渤海国は30回以上も使節をわが国に送ってきているが、この渤海使は日本海を直接渡って越前、若狭などの海岸に到達している。また、時代は少し下がるが、津軽の十三湊を本拠とした日の本将軍安東氏は沿海州の部族と交易していたといわれている。だから、平安時代には日本海をわたる航海術はすでにあったと考えていい。
 ならば、安倍頼時らがアムール河を遡ったとするのは、そんなにおかしな話ではない。

 それに、こう考えると話がずっと面白くなるということもある。
「前九年の役」のすこしあとになるが、頼朝の命を受けた奥州藤原氏に攻められた源義経は衣川では死なずに、逃れて蝦夷に渡り、蒙古に入ってジンギスカンになったという俗説がある。
 世に多い判官ビイキもこんな話は荒唐無稽な話だと思っているだろうが、義経よりも前に安倍頼時がアムール河を遡っていたと知ったら、「もしかしたら、義経もそうしたのかもしれない」と大喜びして、考え直すかもしれない。そして、高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』をもう一度読みたくなるのではなかろうか。

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