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エッセイ・コラム

今年最後の月下美人

浜田 道雄

 十月半ば過ぎ、月下美人の葉の先に小さな蕾がついているのを見つけた。
 こんなに秋も深まってから蕾をもつなんて、これまでにはなかったことだ。今年は残暑が長く続いたから、まだ夏が終わっていないと思ったのかもしれない。
 ならば、今年最後の花だから大事に育て、立派に咲かせてやろうと思った。

 以来、毎朝ベランダでコーヒーを飲みながらこの蕾の成長を確かめ、「いつ咲くだろうか」と楽しみにしていた。
 だが、この楽しみは続かなかった。十一月に入ると気候は一転し、早い寒波がやってきて、一挙に冬のような寒い日が続いた。それで、蕾はパタリと成長を止めてしまった。あと数日で咲くかもしれないというところまで来ていたのに。

「これはいかん。これでは、咲かずに終わってしまうかもしれない」
 心配した私はなんとか咲かせる工夫はないかと考えた。
 鉢全体をビニールの袋で覆ってもみたし、少しでも長く日光に当たるようにと、日の動きに合わせて鉢を移動させてもみた。だが、蕾は一向に大きくならぬまま、一週間が過ぎた。

 ある朝、一つのアイデアが閃いた。
「そうだ! 風呂場に入れてやろう」
 わが家の浴室は東と南がガラス張りの大きな窓だから、冬は温室同様に暖かい。あの浴室なら、月下美人も「また、暖かい日が戻ってきた」と思い直して、咲く気になるかもしれない。
 そして、この手は大成功だった。浴室にいれて二、三日したある夕刻、「もしかして…」と覗いてみると、蕾はすでに開きはじめているではないか!

 大喜びした私は早速バスタブに湯を溜め、風呂に入りながら開花を待つことにした。例によって、ウィスキー・グラスを片手にして、である。
 暖かな湯に浸かりながら少しずつ蕾が開いてゆくのを眺めていると、こちらの気分までがゆったりとしてくる。そして程よく身体が温まったころ、月下美人は満開となり、今年最後の艶やかな姿を披露した。

 ひと夜の晴れ姿を楽しんだ翌朝、もうしぼんでダラリと垂れ下がっている花に、私は声をかけた。
「ありがとう。きれいだったよ。来年はもっとたくさん咲いてくれるよね?」

 この花は料理しなかったし、もちろん食べなかった。

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