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エッセイ・コラム

浄土教の世界 2.法蔵菩薩の四十八本願と極楽浄土

斉藤 征雄

 阿弥陀仏が仏に成る前、その前身を法蔵菩薩といった。はるか昔、世自在王とよばれる仏が現れたとき、一人の王が世自在王に心酔して国を捨て王位をも捨てて修行者になった。それが法蔵菩薩である。
 法蔵菩薩は、衆生を救済するために四十八の本願をおこした。願いは、西方のかなたに清らかな自分の仏国土を建設して、往生を願う衆生を迎えとって救済するというものである。四十八の誓願は「自分が仏になったらこのことを実現する、もし実現されない間は仏になることはない」という言い方で説かれている。
 そして法蔵菩薩は長い修行の末に成仏し、今は阿弥陀仏となって極楽浄土にいる。だから菩薩時代に立てた四十八の本願はすべて完成し、約束は果たされると考えるのである。

 四十八願のなかで最も重要なのが第十八願であり、次のような内容である。
「たとい我仏に成るを得んとき、十方の衆生至心に信樂して、わが国に生まれんと欲して乃至十念せしむに、もし生まれずんば、我正覚をとらじ。ただ、五逆の罪を犯すものと、正法を誹謗するものを除く」(私が仏になるとき、すべての人々が心から信じて私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも仏を念じてもし生まれることができないようなら、私は決して悟りを開かない。ただし、五逆の罪を犯したり仏の教えを誹謗する者だけは除く)
 要するに、阿弥陀仏の本願を信じ信仰の心をおこすだけで、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることができるというのである。

 この世は五濁にまみれた悪世だが、極楽浄土は宝玉で美しく飾られた理想世界であり、そこには苦しみはなく無量の安楽の世界だけがある。そこに生まれれば次に死ぬ時には仏の世界が待ち受けているだけの不退転、つまり元に逆戻りすることがない世界である。
 注意を要するのは、極楽浄土は清浄なる世界、仏に成る修行にさまたげになるものは何もないが、仏の世界そのものではないということである。仏教的にいうならば極楽浄土に往生することがすなわち涅槃ではない、ということになる。
 しかし、浄土教が中国、日本へと伝わり日本で最終的に親鸞に至ると、極楽浄土に往生することがすなわち涅槃(成仏)ということになっていくのである。

 仏教は本来神を持たず、自ら悟りを開いて成仏するという自己自身の中に救済の原理を持つ宗教である。それが浄土教では、単に仏を念じるだけの「易業」で成仏できるという。それは、阿弥陀仏の慈悲の力を信じることによって、慈悲の力で救われると説かれる。
 仏教の中にこうしたある種神に似たようなものに頼る考えが生まれたことは、ヘレニズム文化を通して西の文化の影響を受けた結果なのかも知れないと思う。奇しくも極楽浄土は、「西方、十万億の仏国土を過ぎたところ」にあるという。

(仏教学習ノート38)

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