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エッセイ・コラム

炭坑節の故郷・田川を訪ねて

大平 忠

 筑豊の田川へ行って来た。ユネスコの世界記憶遺産に登録された「山本作兵衛」の絵を見たかったからである。田川は筑豊の中心である飯塚のやや東南に位置する。
 田川伊田駅に着くと、すぐ近くに少し小高くなった大きな広場がある。入口には「田川市石炭記念公園」と書かれてあった。二本の煙突と竪坑がそびえ立っている。煙突の高さは45m、竪坑は23mあるそうだ。炭坑節の「あんまり煙突が高いので、さぞやお月様も煙たかろ」と歌われた煙突である。11月にはこの広場で「炭坑節まつり」が行われ、踊りには数千人が集まるというからすごい。
 なお、炭坑節の元祖争いが田川の三井炭坑と大牟田の三池炭坑との間で起こったが、田川と大牟田の市長同士が話合った結果、めでたく田川に落着したという。炭坑節を歌う時、三池では「三井炭坑の」と歌うべきところを「三池炭坑の〜」と読み替え、さらに三橋美智也が「三池炭坑の〜」と歌って広めてしまったのでややこしくなったのだそうだ。
 かつては、田川地区には三井炭坑の他に三大竪坑と言われた三菱方城炭坑と日炭高松炭坑があった。今残る竪坑は田川のみである。おそらく筑豊地域でもこれ一本であろう。黒ダイヤと言われた華やかな時代のメモリアルである。
 踊りの広場の先に、立派な造りの「田川、石炭歴史博物館」が建っている。あいにく改装中で入れなかった。その横には、石炭運搬に使われた電気機関車、トロッコや、坑内で使用された機械類が置いてあった。別棟には、昔の「炭住」と言われた炭坑住宅の見本が明治、大正、昭和と時代ごとに立っており、その一角に「山本作兵衛」の絵が展示されていた。

 山本作兵衛は、絵を昭和32年65歳になってから描き始めたとか。全部で697枚の絵を描いたというが、ここでは18枚だけしか展示されていなかった。もっと見たかったが残念だった。それでも炭坑内での厳しい作業の様子とか、坑外での日々の生活の細かい様子が、絵の中に書き込まれた説明文と相まって、生き生きとしていて見応えがあった。明治、大正、昭和と山本作兵衛は50年間筑豊の炭坑で働き各時代を経験してきた生き字引だった。絵は素人が描いたとはいえ細部まで克明に描かれている。また素人なるが故に迫力が一層増すのかもしれない。65歳から描き始めて20年以上描き続けたというから、その情熱は大したものである。
 私は一度長崎の端島、高島で炭坑の中へ入ったことがある。エレベーターで長い時間降下し、真っ暗な坑内に入ったときには言うに言われぬ圧迫感を受けた。深さ300mの地の底・闇の中では、長時間いるだけでも厳しい。しかも、常に事故に対する緊張感もある。体力と神経が強靭でないと長年月の坑内作業は到底持つまい。
 山本作兵衛の作品は、「川筋気質」にも触れていた。石炭の採掘、運搬に関わってきた遠賀川流域から若松にかけて言われてきた気質である。筋を通す、義理と人情を重んじ、面倒見が良い、喧嘩っ早く、宵越しの金は持たない。世間一般に比べれば高給取りであること、命のかかる危険作業をしていること、これらが一緒になっての気質である。だんだん薄れてきたとはいうが、この一年、福岡県人には、何かしら今でも「川筋気質」を垣間見る。
 山本作兵衛の絵は、厳しい坑内作業を赤裸々に描いているが、印象は暗くない。恨み嘆きというより逞しさとかそれを誇る感じを受ける。坑外での生活となるとユーモアも交えて家族、近所付き合いの喜びや悲しみを写し出す。それらの描写を、世界記憶遺産としたユネスコの人たちも見る目があったのだろう。

 田川からの帰りに、飯塚に寄り炭坑王といわれた「伊藤伝右衛門住宅」を見物した。2千数百坪の敷地に建つ豪邸である。特別に作られた「白蓮の間」もあった。このような屋敷が福岡と別府にもあったという。炭坑事業が、いかに利益を生んだかを物語っている。田川での「炭住」を見てきた直後だったので複雑な気持になった。しかし、伊藤伝右衛門は坑夫たちの待遇に意を尽くし住宅の整備も第1級だったとか。筑豊地域に私費を投じて小学校の講堂や女学校を設立した。遠賀川の修復、福岡銀行の設立などにも力あったという一角の人物だったらしい。地元での評価は高く、白蓮事件で有名になったがそれだけではないと説明を受けた。

 明治から昭和30年代まで、日本の近代重工業を支えた石炭の歴史を、片鱗ではあるがまる1日見て回ってたいへんくたびれた。

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