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エッセイ・コラム

隠岐島

平尾 富男

 島根県隠岐島は古くから絶海の孤島として遠島流罪の地だった。後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流された島として有名である。
 現在ではイケメン力士として女性に人気のある大相撲の隠岐の海の出身地として知られている。2017年3月の大阪場所では10勝5敗の成績を残した。島に古くから伝わる古典相撲で子供の頃から廻しを付けて土俵に上っていた。2005年1月場所に初土俵を踏んだ同期には、豪栄道、豊響、そして栃煌山がいる。

 今から遡ること800年前、後鳥羽上皇がこの島に流された際に詠んだ歌は;
  われこそは
  新島守よ
  隠岐の海の
  荒き波風
  心して吹け
 上皇は失意の内に、この絶海の孤島で20年近くもの謹慎生活を送り、60年余りの生涯を一歌人として終えたのだった。
 1219年7月、後鳥羽上皇は討幕に向けて動き出していた。朝廷の内裏を警備していた大内守護の源頼茂を討伐することがその第一歩だった。既に守りを固めさせていた北面の武士に加え、西面の武士を新設した。僧兵や北条氏に反感を持つ御家人も味方につけて、幕府との全面対決に備えたのが1221年5月。後鳥羽上皇の呼びかけで、鴨川と桂川の合流点に1,700騎あまりの武士が集結した。これが「承久の乱」の始まりである。
 包囲された頼茂は火を放って自害する。この火事で内裏の中心部までもが消失してしまった。上皇は、この討伐の理由として頼茂が謀反を起こし将軍になろうとしたと説明した。ややこしいことに、後鳥羽上皇は順徳天皇を上皇とし、まだ4歳だった孫を仲恭天皇としたのだ。これにより、同時期に後鳥羽、土御門、そして順徳の3人の上皇が存在する異例事態となってしまった。
 しかし、これには後鳥羽上皇の狙いがあった。土御門は討幕に消極的だったが順徳は討幕に積極的だったので、順徳を上皇としたのだ。
 上皇は皇位の象徴である三種の神器〔八咫鏡(やたのかがみ),草薙剣(くさなぎのつるぎ),八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)〕がないまま即位してしまっていたので負い目を感じていた。伝統を重視した朝廷の異例事態故に討幕にこだわったのである。後鳥羽上皇は誰よりも強くあらねばならなかったのだ。

 800年後の今、力士・隠岐の海は昭和の大横綱が二人いた由緒ある八角部屋で角界の重鎮を目指している。

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