作品の閲覧

エッセイ・コラム

南国土佐を後にして

内田 満夫

 思いもかけない土地と、一方ならぬ縁のできることはあるものだ。私にとって土佐・高知がそれである。先ごろ亡くなったペギー葉山の歌う表題曲は、私のカラオケの持ち歌のひとつ。さっそく追悼のカラオケ行脚をして、高知赴任時の回想に浸ったのは言うまでもない。
 最初に「土佐」の地名を耳にしたのは、夏の高校野球(1953年)の決勝が土佐高校対松山商業の四国同士の対決となった小4の時である。電気店の店頭テレビに大勢で群がって、試合中継を観戦していたことを思い出す。「南国土佐を後にして」が大ヒットしたのは1958年。歌謡曲好きの母親がよく口ずさむのを聞いたが、将来自分がその地と縁ができようなどとは知るよしもない。
 1980年代の後半は世間で新素材開発・事業化活動が盛んな頃で、金属メーカーに勤務していた私も磁性材料製品の事業化に取り組んでいた。その納入先のひとつだったベンチャー企業M社の新工場竣工式に招かれ、土佐の高知に初めて足を踏み入れたのが1990年。磁気センサー開発に協力した縁から、その後定年までの10年近くをこのM社でお世話になることになる。
 高知の水は私にピッタリ合っていた。呑友、唄友、走友がすぐにできて、単身赴任生活の自由を謳歌することになる。M社は高知市から東へ20キロ足らずのK町、山紫水明の地にあった。従業員百人程度の規模だったが、県・町をあげての誘致企業だったので、工場の責任者ともなれば私も地元名士のはしくれである。地域産・官・学各位との会議やつきあいが頻繁にあった。走りの得意な私は、町主催のマラソンや駅伝大会でも活躍する。酒好きの土地柄、会合のあとにはたいてい宴席があったので、むしろそちらのほうを楽しみにしていた。大臣や知事や大相撲立行司など、地元著名人のお流れを頂戴したこともある。
 楽しい思いをたくさんさせてもらった土佐・高知は、私の第2の故郷だ。その南国土佐を後にして、神戸に帰ってもう13年になる。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧