「奥の細道」翁道中記(その七 日光・裏見の滝)
八日目(平成二十九年三月十四日)
翁三人、春を待ちわび「奥の細道」歩きを再開する。JR日光線の車内で落ち合い、十時過ぎに今市へ到着。今夜宿泊する駅前旅館に荷物を預け、裏見の滝に向け出立する。
夜来の雨は上がったが、雲が低く垂れこみ冷気が肌を刺す。日光街道と例幣使街道の合流地点に在る追分地蔵尊で今回の旅の無事を祈る。続いて近くの報徳二宮神社に立ち寄る。二宮尊徳は後半生を下野の殖産に努め、この地で没し祀られた。境内に多くの顕彰碑があり、奥に墓碑と円墳がある。「墓も碑も作る勿れ。土を盛り、木一本を植えれば可なり」との遺言を残したというのに、これらは何事か。
杉並木街道は上今市駅の前から公園に入り、歩行者専用路となる。幹径一メートルもある杉の並木が真直ぐに伸びる。道脇の水路を澄んだ水が滔滔と流れていく。清々しい気持ちで歩みながら全国の街道筋がこの様であればと思う。
日光駅前のラーメン屋で昼食をとり、東照宮参拝は割愛し、神橋を渡り「含満の淵」の散策路へ。大谷川の清流がV字渓谷の崖に当り飛沫を散らす。その音が不動明王のご真言「……カンマン」に聞こえることから、「憾満(かんまん)の淵」と呼んだのが名の由来という。この辺りで芭蕉は「あらたふと木の下暗も日の光」と詠み、後にその中七を「青葉若葉」に改めた。だが初案の方が今の風趣には相応しい。
散策路が終わり長い急坂へと続く。足が重くなり、前を行く二人がどんどん遠ざかる。だが歩行禅で覚えた丹田呼吸につとめ、マイペースで登っていく。路辺に雪の塊が残り、渓流の水際は白く凍り、山霧が下がってくる。最後の難所には立派な木道が出来ており感謝感激、一息つき「裏見の滝」へ辿り着く。
芭蕉は「しばらくは瀧にこもるや夏の初」と詠み、滝の裏側にもまわったという。だが現在は裏側に人が通れる程の空間はない。下流の「憾満の淵」の呼称から推して、元々の名は「憾みの滝」だったのではと思いつつ、夕闇迫る滝を後にした。
(10:20-17:10 36,800歩)