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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その八 今市~矢板)

池田 隆

 九日目(平成二十九年三月十五日)
 昨日につづき今朝も薄ら寒い。今市より東へ向かう大谷川(だいやがわ)の左岸に沿って行く。河原も畑も一面の枯野で車も通らず人影もない。静寂である。農家の庭先に咲く白梅だけが春の兆しを告げている。背後を振り返ると、霧雲の先から日光連山が此方を凍てつくように見つめている。
  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 芭蕉の頭を最期にかけ廻ったのは、この様な光景だったのだろうか。
 川堤を二時間ほど歩くと、広大な敷地に囲まれた白亜の建物に突き当たる。ゲートまで行くと豆腐工場であった。いったい一日で何十万丁を作るのだろうか。製造工程は街の豆腐屋と同じだろうに、昨今の食品工業のスケールに驚嘆する。
 大谷川はこの先で鬼怒川に合流するが、地図を調べても適当な橋がない。北側を通る国道481号線(日光北街道)へ大きく逸れ、大渡橋で鬼怒川を渡り、塩谷町に入る。すると「かしわ餅」の幟を掲げた饅頭屋さんが目に留まる。迷うことなく店内に入り一服。利久饅頭四十五円、酒蒸し饅頭七十五円とある。値段も嬉しいが、三時間半の歩行後に食べる蒸し立ての饅頭ほど美味いものはない。熱い濃茶を頂きながらモグモグと腹に収める。
 旧道を行くが、やがて国道に吸収され、旧玉生宿へ二時三十分に着く。芭蕉は此処まで来た時に雷雨に遭い日も暮れ、農家で宿を借りたという。現在もやはり旅館などはない。ここから十キロ以上も先の矢板市街まで行かねばならぬ。疲れてきたが、次の矢板行バスの発車時刻までは三時間もある。気を取り直し、国道を歩き続ける。
 旧日光北街道の最難所であった倉掛峠付近には、森の中に一キロほどの旧道が残る。その区間だけは快適だが、再び単調で喧騒な国道となる。身体は疲労困憊、気力だけで矢板のホテルに到着。空腹の筈なのに夕食の料理を前にしても食欲が出て来ない。ビール一杯を飲むのがやっとである。尤も同行のS翁とМ兄は普段とあまり変わらない様子だ。私だけが自分の体力の限界を自覚する一日となった。
 (8:00-18:30 51,600歩)

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