唯識思想 2.空の思想その他を幅広く受け継ぐ世界観
ブッダの悟りの核心つまり仏教の本質は、諸行無常、諸法無我という言葉で表わされる。すべては変化するものであり、恒常不変のものはない。それは人間にも当てはまり、不変の実体をもつ自我はないという。
部派仏教も無我を引き継いだが、それを論証するために説一切有部は、物や人間の存在を構成する要素を究極にまで細分化した(五位七十五法によるダルマの体系)。
その結果、現実の世界は実在ではなく人間も無我であるが、世界を構成する究極の構成要素(ダルマ)だけは実体を持ち実在として「ある」と結論づけた。
大乗仏教の空の思想は、この説一切有部のダルマの実有論に対抗するために生まれたものである。空の思想は主として般若経典で述べられているが、すべての大乗経典が空の思想をベースに置いているので、空は大乗仏教の中心思想である。
龍樹は、空は縁起と同義でありそれは中道であると言っているが、このことは、空の思想がブッダの悟りの世界と直結していることを示していると考えられる。空性を知ることが悟りの世界なのである。
唯識思想も、空の思想を前提としている。しかし、どうやって空性を知ったらよいのか。人は、すべてが空であるにもかかわらず自己に執着し煩悩の世界から抜け出せない。すなわち、煩悩はあまりに深く人間存在に根差して、それ自体の根拠をもっているために断ち切ることが難しい。そういう意味では、般若経の教えも中観の思想も中途半端で、すべてを解き明かしてはいないといえる。
唯識思想は、煩悩つまり心の本質を構造的に解明し、それを修行の実践に結び付けて、人を悟りの世界へ導こうとするものであるといわれる。
大乗仏教では、唯識思想に先立って如来蔵思想が生まれていた。如来蔵思想は、衆生の一人ひとりの中にすでに存在している仏のいのちが種々の姿をとって世に顕現するという、華厳経の思想を継承発展したものといわれる。衆生の一人ひとりに仏性が宿っているので、それに付着している塵を除けばそのまま法身になって真如の世界を見ることができる。
唯識思想も、心は本来清浄と考える点では如来蔵思想と同じである。ただ、塵の付き方、つまり煩悩の在り方があまりに根深いので、先ず煩悩の根拠を追求することを出発点とする。そして煩悩の根拠、つまり心を転換すれば真如が現成すると考えるのである。
以上のように唯識思想は、大乗仏教の中心思想である空の思想に連なっていることを始めとして、華厳経その他の思想を幅広く受け継いで、唯識の世界観を作り上げている。
(仏教学習ノート42)