『秋山圖』と『山鴫』への作為
芥川龍之介全集を繰っていたら小冊子が出てきた。全集は昭和九年に発行されたもので、龍之介の死後七年経っている。冊子も全集に付いていたもので、生前の龍之介と親交のあった著名人が、彼にまつわる思い出を語っている。
中の一つ、宇野浩二の文には、
―大正十年ころの事― という題で『秋山圖』と『山鴫』のことが書かれていた。
文の冒頭に、小説家は、小説の最初と終わりに一番嘘をつく、というような海外の作家が言った言葉が書かれていて、芥川の前記の作品は「嘘」に真実性を与えたり、「嘘」を巧みに生かしている、とあったのに興味をそそられ、早速読んでみた。
『秋山圖』は、中国の話で、秋の夜、書画の愛好家が茶を啜りながら
「黄大癡(こうたいち)の秋山圖をご覧になった事はありますか?」と聞く所から始まる。
「いや、見た事はありません。あなたはご覧になったのですか?」その答えは「見たと言って好いか、見ないと言って好いか」
見てないと言った人は、中国の風景や人物を描写しながら探し求め、見ることが出来た。だが、あまりに素晴らしくて、本当に見たのだろうか。今になってみると見たような、見なかったような……。
作者の芸術観が、巧みな〝嘘(創作)〟で見事に書かれていた。
『山鴫』の方は、ロシアを舞台にしている。
ある日暮れ方、ツルゲーネフがトルストイの家を訪れ、トルストイ一家と共にヴァロン川の向こうの雑木林に山鴫を打ちに出かける。やがて銃声が轟き、トルストイが手応えを感じると、すかさず猟犬と一緒に彼の子供達が駈け出し、獲物を持って大人たちの所に戻って来た。
「ご主人に先を越されました」と苦笑するツルゲーネフをトルストイ夫人が何気ない会話で気遣う。
次にツルゲーネフが獲物を仕留めるも、見つからないうちに夜になり、明朝探すことにして、ツルゲーネフはトルストイの家に泊まる。というストーリーで、作家同士の性格と神経が醸し出す微妙ないがみ合いの心模様や、トルストイ家の書斎、客室の描写の素晴らしさ、それに夫人や子供たちの明るさ、天真爛漫さも加わり、感じ良く嘘を並べた(創意を練った)小説に仕上がっていた。
龍之介もさることながら、作家の創作を〝嘘〟という言葉に置き換え、是非読んでみたいと思わせた、宇野浩二の小冊子に書かれた作為に、私は軍配をあげたい。