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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その十一、十二 黒磯~境の明神)

池田 隆

 十三日目(平成二十九年五月九日)
 早朝、東京駅から快速電車に乗り、黒磯に向う。東海地方以西は広く雨天だが、北関東はまだ薄日が差している。駅前からスタート、那珂川の土手道に出る。
 ジョギングや散歩を楽しむ人たちと挨拶を交わしながら上流へと向う。右手の足下はやがて広い草原から清流の瀬に変わる。釣り人に声を掛けると、山女魚を狙っているとのこと。向う岸は新緑の樹木に覆われた河岸段丘の絶壁である。左手に目を移すと、ツツジ、オオデマリ、フジ、レンギョウなどが咲き誇る池苑が広がる。
 一里ほど続いた土手道が終わり、東北自動車道を越えると周囲は広々とした田園風景となる。田植えを終えたばかりの田圃の中を道は緩やかな勾配で上っていく。那珂川に高く架かる「りんどう橋」に差し掛かる。見下すと渓流を挟んで樹々がモクモクと若い精気を漲らせている。同じように元気に満ちた高校生たちが、正面に望む那須岳では先日雪崩で遭難した。やるせない想いが募る。
 坂道は徐々に傾斜を増し、別荘地の中を続く。息がはずみ、足取りも重くなるが、ひたすら登り続ける。夕刻も近づいた頃に那須湯本の温泉神社に辿り着く。出発地点から二〇キロ、標高差七五〇メートルの行程であった。参拝後、先ずはその裏手の殺生石へ。能や謡曲で有名な地で、「九尾の妖狐が玉藻の前に化け鳥羽天皇の命を狙う。しかし見破られ、この地に逃れたが追手に射殺され殺生石となる。だがその後も周囲の人を殺し続けていたが修験僧の供養で悔い改めた」という筋だ。芭蕉も訪れ、

石の香や夏草あかく露あつし

と詠み、「石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐい真砂の色の見えぬほど重なり死す」と述べている。現在も硫黄の臭いが漂い、賽の河原を連想させる。
夕食を取ろうと湯本の温泉街に出るが人影はない。どの店も閉じて死の街のようである。地方創生の公約はどうなったのか、殺生石の呪いが再び現れたようだ。営業中の和食店を一軒だけ見つけ、なんとか空腹を満たす。

(10:30-17:30 38,200歩)

 十四日目(平成二十九年五月十日)
 雨の朝を那須湯本のペンションで迎える。泊り客は吾々だけであるが、心地よい温泉の洒落た宿で、朝食に出る手作りパンも美味しい。その上に女将の運転で麓の黒田原駅まで送ってくれる。
 雨も上がり、爽やかな気分で旧奥州街道の芦野宿へ向う。江戸期には交通の要衝として旅人や文人で賑わったという。今では往時の賑わいを偲ばせるのは各家屋に取付けられた旧屋号の名札ぐらいである。その中に一軒、「創業三百年のうなぎ丁子屋」と書かれた店を見つけ、喜んで入ろうとしたが生憎にも休業日である。
 この地は菅野石という石材の産地である。旧街道を歩いていると偶然にも「石の美術館」の前に出る。四角の石材だけで構成された簡素な現代風の建物群と池の広場が素晴らしい。古い石蔵も活用した隈研吾の設計という。入館して展示物を鑑賞する。
 街並みを過ぎると、歌枕や能曲として名高い「遊行柳」が目の前の田圃のなかに現れる。遊行上人が旅路の途中、ここで西行の和歌に詠まれた柳の精の老翁に夢で出会い、十念の御陰で成仏できたと喜ばれるお話である。柳の近くには、

道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行
田一枚植えて立去る柳かな 芭蕉
柳ちり清水かれ石ところどころ 蕪村

の歌碑と句碑が立つ。
 街道を進むと、道脇に「べこ石」という丸い岩がある。碑文が彫られているが、判読できない。横の説明板によると、幕末の頃に土地の識者が書いたもので孝行の勧めや堕胎の戒めを教えているとのこと。当時の世情風俗を垣間見た思いがする。
 さらに行くと今度は瓢箪の形をした大きな石塔を見つける。歌舞伎や浄瑠璃の演目「箱根霊験躄(いざり)仇討」に出てくる勝五郎と初花はこの地に長らく滞在した。そのときに敵が通るのを見守りながら勝五郎が彫った石の瓢(ひさご)という。
 栃木・福島の県境の手前まで達したところでタクシーを呼び、宿泊の予約をしてある芦野温泉へと戻る。

(10:10-17:00 30,600歩)

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