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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その十三、十四 境の明神~矢吹)

池田 隆

十五日目(平成二十九年五月十一日)
 栃木・福島の県境「境の明神」が今日の出発地点である。江戸期までは奥州(陸奥)の玄関口として国境の両側に関所があり、「二所の関」と呼ばれた。女神の玉津島明神と男神の住吉明神が祀られている。此処からが文字通りの「奥の細道」だ。「やっと来た」という感慨と「これからが本番だ」という意気込みが交錯する。
 歌枕で有名な古代期の「白河の関」はこの旧陸羽街道より一里半ほどの東にあった。芭蕉は新旧両関を訪ねている。吾々も遠回りになるがその迂回コースを辿る。
 「卯の花街道」と呼ばれる山里を抜ける爽やかなルートである。卯の花にはまだ早いが、里人が路辺に沿って植えたサクラソウが満開で足取りを軽くしてくれる。正午前に白河神社境内の「古関蹟」の碑に到着。

都をば霞とともに発ちしかど秋風ぞ吹く白河の関 能因
便りあらばいかで都に告げやらむけふ白河の関は越えぬと 兼盛

など、此処を実際に訪れた人あるいは想像のみで詠んだ人など、古人の歌碑が多数建つ。なかには、

白河を名どころにして関の跡 五花村

という川柳碑もある。たしかに所在地不明になった古関跡を、後年にこの位置と特定したのは松平定信という。
 つぎに向うのは義経や芭蕉も登った関山(せきさん)である。標高六一九メートル、正味の高低差三百メートル弱の山であるが、かなりの急坂である。
 息も絶え絶えに頂上の満願寺に達する。名山と言われるだけに東西南北の眺望は抜群である。良く晴れた日には富士山から磐梯山まで望めるという。今は無住の寺だが、行基開山と伝えられ、三百年の歴史をもつ大きな銅鐘もある。試みに思い切り撞いてみると、力強い音が静寂な山中に鳴り響き、疲れも吹き飛ぶ。
 関山を下り、白河市街に接する南湖公園へ。定信所縁の灌漑用の人造湖だが、那須連峰や関山を借景にして杭州の西湖や蘇州の太湖の風趣を醸す。訪れた文人たちの漢詩碑が処々に建つ湖畔を半周し、市中のホテルに向う。

(8:50-18:00 41,400歩)

十六日目 (平成二十九年五月十二日)
 白河のホテルを出ると、目の前の寺に小原庄助の墓がある。酒好きの代名詞になった人物で、本名は会津塗師の久五郎。一八五八年白河にて没、享年八十三歳という。辞世の句は「朝によし昼になおよし晩によし飯前飯後その間もよし」、戒名が「米汁呑了信士」、墓も徳利と盃の形である。М兄は同好の先人を拝み、嬉しがる。
 瀟洒なJR駅舎とガードの反対側に出ると、風格ある白河小峰城が目の前に聳える。戊辰戦争で焼失したが、平成になり忠実に復元したとある。見学したいが開門までに一時間以上も早く、断念して後にする。城下町の趣きや町名を残す通りを進むと、柏餅を供えられた「宗祇戻し」の碑と由来書きが目に留まる。
 連歌師の宗祇がこの先に在る鹿島神社で行われる連歌会に出ようと遥々やって来るが、此処まで来た時にたまたま出会った地元の婦人から会が既に終わったことを告げられる。引き返そうとしたが、婦人が抱えていた綿が欲しくなり、売るかと尋ねた。すると

阿武隈の川瀬に住める鮎にこそ「うるか」といえる腸(わた)はありけれ

の返歌が返ってきた。「うるか」とは鮎の腸のことである。彼は庶民まで歌の教養があることに感心したという。芭蕉もこの故事を知り、ここを訪ね、一句を詠んでいる。

早苗にも我色くろき日数かな 芭蕉

 碑の横に饅頭屋がある。躊躇わず入ると、柏餅、茶饅頭、酒饅頭、栗饅頭など、どれも出来立てで涎が出そうである。昼飯用に買い込んで店を出る。阿武隈川を渡り、鹿島神社に参拝し、しばらく行くと田圃に囲まれた小山に一本の大きな楓の木が生え、「転寝の森」と書いてある。源義家が遠征途中に此処の林のなかで一睡したのが名前の起こりという。それを読み込んだ清少納言の和歌も記されているが、理屈っぽくて分り辛い。
 国道四号線と交差を繰り返す旧道沿いの広大なソーラー発電所や昔を偲ばせる松並木などに気を奪われながら歩むうちにJR矢吹駅に着く。

(7:50-15:40 37,500歩)

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